六
「覗いているみたいでちょっといたたまれなかったから、呼んでくれて助かったよ」
声を潜めて感謝の意を表すと、
「そうか。それはよかった」
少女は口もとを緩めた。天幕を振り返る。言葉が聞き取れない程度に離れたところで話し合う王と牛おっさんの様子を眺めた。先ほどと何ら変わらない。きっとまだ慌てふためいて通じない話を続けているんだろう。クールな印象の、自分のいた世界だとバリキャリ(バリバリにキャリアを積んだ仕事のできる女性の意)風なのに、王様もプライベートだとあんなふうにうろたえるのか。なんだかほほえましい。
「仲よさそうだね」
コウジの背中越しにやはり王たちの様子をうかがっていた少女を振り返ると、困ったような、呆れたような、強いて言うならば猫のフレーメン反応のような顔つきをしている。
またか。また何かやらかしたのか。コウジは泣きたくなった。
「マレビトよ……。王たちの様子がどう見えるのか教えてくれ」
「……言ったら怒られるような気がするから嫌だ」
「今回は怒らない。約束する」
ほんとかよ。コウジは疑いの眼差しも露わに少女を見下ろすが、相手は動じない。仕方なくコウジは思った通りを口にした。
「恋人とか、夫婦の痴話喧嘩」
少女は「そう見えるか」とため息混じりにつぶやいた。何か痛ましいものを見るような、そんな表情をしているように見えなくもない。約束通り怒りはしなかった。でも何の解説もないからコウジは宙ぶらりんな気持ちになる。
「今後はそういう感想を口にしない方がよかろう」
「分かった。気をつける」
どうも自分は余計なことを口走ってしまうらしい。コウジはげんなりした。早いところこの世界、この国の常識を身につけなければ。
問いただしたい気持ちを抑え、広場の隅に停めてあるカートに向かう少女の背を追った。
「手伝え」
少女がぶすっとした表情でコウジを見上げる。
「何をすればいい?」
「そうだな、天幕の設営は――いや、いい」
少女はコウジの困った顔を見て途中で口をつぐんだ。明らかにがっかりしている。コウジも自分自身にがっかりしている。こんなことならもっとアウトドアに精を出せばよかった。再び柚子の世界を訪れることになるなどと思いもしなかった、柚子の面影を振り払えずに過ごしたこの五年間、キャンプやらバーベキューやら、アウトドアなアクティビティを避けに避けた。友人の誘い、アウトドア好きの義理の兄(当然子守要員としてあてにされている)の誘い、柚子への未練を覚えるそれらすべてを退けた。もちろん、単にコウジが出無精でインドア趣味だからでもあるが。まさか五年たってまた同じやり取りを、忘れられない人そっくりの少女と繰り返すことになろうとは。
「じゃあ、かまどを作る石を集めればいい?」
僅かに目を瞠った少女がうなずくのを確認し、コウジは地面に目をやった。
――これ、こういうので、濡れていないものがいい。
記憶の中の柚子の声が、面影がゆらりと遠のき、小さな天幕を組み立てる少女に重なる。小ぢんまりした円錐形の天幕を張り終えた少女がやってきて、いっしょに石を拾ってくれた。
「この国の男は牛や馬の亜人類だ。男たちはすべて王のしもべでな」
それはとてもよく似合うというかなんというか。あたふたする前の王の覇気あふれる姿をコウジは思い返しながら大きな天幕へ視線を投げた。話が食い違う王と牛おっさんは口論を続けながら天幕へこもってしまった。
「食堂や病院、道具の工房、軌道エレベータの営繕やら王のまつりごとの補佐などが男たちの仕事だ。男たちは王直属の部下であり、しもべなのでな、本来は王家のそとの女と契ってはならぬのだ」
要するにいろんな仕事をしているけど、男性国民はすべて王のハーレムに属しているということだろうか。ハーレムやら後宮というのが通じなかったのでコウジはしどろもどろになりながら説明した。
「――ああ、そうだな。そのはーれむとかいうのに似ている。名目上は」
「実際は違うの?」
「確かに男は王のものなんだが、これは建前で男も女も壮年体になれば好き合った者同士契ってよいのだ。あからさまに話を持ちかけるのははしたないこととされているが。ただ、祭りは特別。建前を抜きに男を口説いてもよい、はしたないなどと後ろ指さされることもないということになっている。女たちが狩りで得た毛皮やら、馴鹿の放牧先で得た美しい石やら歌などなどを捧げて誘いをかけるわけだ」
「ああ、なるほど。祭りの間は気が昂ってちょっと大変、ってそういうことか。あ、――その」
「母者が言っていたか」
「……うん」
大きな天幕へ目をやった少女が口を開くまで少しだけ時間がかかった。
「男たちはすべて王のものだ。だから本来は遠慮などいらない」
「違うんだね」
「うん。今、王とともに天幕に入られたのは、元は先王の王配のひとりだった方だ」
「えっと……お母さんの配偶者と、ってこと?」
少女は気まずそうな顔をした。
「王配というのは決まっていてな。牛頭党、馬頭党、それぞれの長が務める」
「生まれる前からお相手が決まっているってこと?」
「うん」
王のクローン体を培養し始める前に、まず牛頭、馬頭の王配クローン体の培養を始めるのだそうだ。
「牛頭の先王配は若い頃、『醜い』と先王に疎まれたのだそうだ」
ごく普通の牛顔だったが、とコウジはさっき目にした牛おっさんの顔を思い出す。牛顔に美醜などあるんだろうか、あるんだろうなあ。
「じゃあ、別に誰とお付き合いしてもかまわないんじゃないの」
「そうもいかないらしい。それだけでなく先王は、当時春宮だったわがきみから馬頭党の王配を取り上げたのだ」
娘の彼氏を、ということか。乱れてる。
そういう気持ちが顔に表れていたらしい。コウジをちらりと見て少女は困った顔をした。
「私はこういう男女の機微が理解できない。やっと今年、壮年体と認められたばかりだ。――その、あの、――先王は確かに馬頭をひいきにされて――馬頭だけでなくその――若く美しい男を好まれるがその――決して悪い方ではない。今上たるわがきみが際だって英明であらせられるだけだ。わがきみは定められた王配に限らずどなたとも契られない。でも時折牛頭の先王配を切なげにご覧になる。牛頭の先王配も同様だ」
少女はちらりとコウジが姿を現したあたりにある大きな石を見遣った。
「恋は不思議だ。母者が言うておられた。どちらが先に手を出したの出さないの、そういうものではない、と。先王のふるまいいかんにかかわらず、いずれああなったのだ、と」
決まりごとを違えて惹かれあったということか。
「私は母者から聞いたが、こういういきさつを知らぬ者がほとんどだ。だからわがきみがだれに惹かれているように見えようともそれを言葉にしてはならない」
どの男であっても自由にできる立場にありながら、誰とも契らないと公言しているのだから、ということか。めんどくさい。コウジはそう思った。とにかく誰と誰がくっついたのそうでないのというゴシップで盛り上がるのはNG。そう理解することにした。
「ところでその――名前の件だが」
少女はかまどを組み立てる手を休めず、視線をコウジに向けることなく話した。
「私の名は橘だ」
「――いや、でも」
「ご、誤解するな。その、ちちちち契りたいとかそんな、その、あの、はしたない理由じゃない。ただその、知らない世界にきてその、マレビトが困っているのがあわれだからな、その、名前を教えるくらいはマレビトの世界の習わしに、そのあの」
「分かったよ――」
「呼ぶな、呼ぶなよ? 私の名前、教えたけど呼んじゃ駄目だ」
「いや、そうじゃなくてぼ――」
「いやいやいや、言わなくていい、名乗らなくていい! 名前、言うな!」
あまりに目の前の少女――橘が真っ赤になるのでコウジは名乗るのをやめた。よっぽどはしたない行為であるらしい。
「分かった。きみの名前、ちゃんと聞いたし、覚える。ありがとう」
名前を呼べない、呼んでもらえないのは残念だけど。それでも、気遣いがうれしい。かまどを組み立てる橘に石を手渡しながらコウジは微笑んだ。




