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そしてぼくは道を踏みはずす (一)  作者: まふおかもづる
第一章

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11/83

――ぶ……ん。


 膝かっくんで帰ってきたら、面接会場で椅子に腰かけたままコウジはずるり、と身体を傾けていた。今まで通りだ。タイミングもずれていない。アニメの萌えキャラを描くのに夢中な面接官はコウジが異世界へ行っていたなどと気づきもしない。


「あ、はい、じゃあいいです。ごくろうさん」


 しばし後に解放された。会場となった部屋を出る時、下げた頭の向こうからため息が聞こえてきた。

 この会社には入れないな。コウジは評価されなかったらしい。不思議と気が軽くなった。入ってもうまくやっていけそうにないし。



 帰宅後、コウジが


「なんか、手首が痒い」


 と愚痴ると、ぼんやりと虚脱していた母親の目に力が戻った。つかつかと寄ってきて腕を掴み、一瞥するなり母親はコウジを病院に叩きこんだ。


「水ぼうそうですね。入院してください」


 異世界から帰ったその日、コウジは二十二歳にして初めて水ぼうそうにかかった。

 そういえば、次姉多美の娘、みそのがまだ生後半年に満たないというのに水ぼうそうにかかったんだった。小さな水ぶくれのような発疹がかわいい身体のあちこちに現れて、それはもうかわいそうで、コウジも看病を手伝った。感染源は赤ん坊だ。間違いない。母親は


「そういえば、コウジだけすませてなかったんだった……かしらねえ?」


 と首をかしげていた。子どもも四人目となるといい意味でもよくない意味でも育児に慣れていちいち覚えていられないということだろうか。忘れちゃうなんてひどくないか。その分、両親からの束縛が緩かったことを棚に上げてコウジは憤慨した。

 赤ん坊のみそのはすぐに症状が軽くなったが、水ぼうそうを移された大人のコウジは大事になった。


 病棟に隔離されて入院一週間、自宅静養一週間、合計二週間の軟禁生活を送った。

 コウジの身体が大変なことになったのは最初の三日間だけだった。それでも全身に発疹が出て喉が痛み、顔がぶつぶつに埋まってぼこぼこに変形し、体温が四十度まで上昇した。

 熱と痛みにうなされながら考えたのは、うまくいかない就職活動でもこれから先の人生の不安でもなく、異なる世界で暮らす美しい人のことだった。ひんやりとした森の空気。こんこんと湧く泉。針葉樹と苔と釣鐘のような白い花。強面の三頭犬。白昼夢だったのかもしれない。でも、忘れられない。




 就職活動は友人たちに比べずいぶん遅れた。このスタートの遅れで恋人との仲がぎくしゃくした。アルバイトがきっかけで出会った恋人は他大学の学生で、かれこれ二年つきあいが続いている。やさしい顔立ちのおっとりとした女の子で、多彩な表情と仕草が魅力的だ。遊園地に行くようなイベントのようなデートだけでなく、ただ公園を一緒に歩いて笑ったり、むくれたり、ぼんやりしたりする彼女のくるくると変わるかわいらしい表情を見ているだけで楽しかった。


「みさちゃんのカレシはもう内定出たって言ってたよ? ***だって」


 ***は人気のある大企業だ。それはすごいね、とコウジが相槌を打つと恋人は二年間のつきあいで初めて語気を荒らげた。


「なんでそんなに他人事なの? ウチ、こんなに心配してるのに」


 だってみさちゃんとか言う女の子のカレシなる人物なんて他人だし、悔しがってみたところでそんなことで内定が出るわけもない。


「信じらんない! ウチの将来、どうしてくれんの? 今までの二年、返せ!」


 黒目がちな優しく愛らしい顔立ちが般若のようにがらりと変わる。絶句するコウジを置いて恋人は去った。


 絶句したのは恋人が豹変したからではない。コウジは自分の心が恋人から離れていたことに初めて気づいてショックを受けた。


「なんてこった……」


 針葉樹の森の世界で柚子と睦む間、恋人のことを思い出さなかった。柚子の弓を引き絞る姿、すべすべとしたあたたかな肌、潤む大きな目、時間が経っても細部まで思い出せるのに、つい今しがた立ち去ったばかりの恋人の姿はおぼろだ。この時まで、コウジには不実の意識さえなかった。

 友人の中には勢いで一夜の関係に走る者もいる。自慢げにそれを語る者もいる。でもまさか、自分がそんなことをしてしまうなんて。

 だからといってコウジは恋人にわざわざ懺悔したりなどしなかった。


――面接中に膝かっくんでずっこけて異世界に行っちゃいました。

――そこで金髪美女と恋におちました。


 正直に言ったところで信じてもらえない。就職活動が難航しているだけであれだけ怒る恋人だ。異世界トリップの話など持ち出したら――怒るだろうなあ。想像するだけで面倒くさい。



 だからコウジは恋人との仲が自然消滅したと考えることにした。恋人は怒っていたし、いろいろと申し訳ないし、しかもその申し訳なさの内訳を明かせないときたもんだ。

 スタートは遅れたが、なんとか内定をもらえてコウジの就職活動は無事終了した。人気番付上位企業というわけではないが、大学の就職課の職員にも


「きみに合う会社だと思うよ」


 と太鼓判を押してもらえたし、何よりも、父の死後どんよりし続けていた母親が大喜びしたことが嬉しかった。



 あれから五年。一度も道を踏みはずしていない。そしてコウジには忘れられない金髪巨乳美女がいる。異世界に。

 大きなアーモンド形の目のはちみつ色の瞳。光を集めたように輝く金色の髪。すべらかな白い肌。ぶっきらぼうで少し古風な言葉遣い。ちっちゃなケルベロスを抱く別れの時のさびしげな姿。忘れられない。


 会社の通用口から路地を抜け、駅へ向かう。夜十時になってもたくさんの自動車が行き交う道路を渡れば駅だ。コウジのように残業から解放された者。あるいは酒場を梯子して酔いに身を任せた者。ガード下で信号待ちをする人が増えてきた。ふ、と道路の向かい側で信号待ちをする人々に目をやると、先にオフィスを出たはずの問題の多い後輩女子社員が尖った目つきできょろきょろしながら交差点へ近づいてきている。見つかりたくない、と思ったら目が合った。剣呑な目つきで女がコウジを睨む。

 女が信号待ちの人々をかき分けこちらへ向かってくる。信号を無視するつもりだろうか。

 自動車や電車の行き交う音に負けじと携帯電話に向かって大声を出す酔客の身体がふらり、と揺らぐ。

 となりでふらつく酔客に押されてコウジの身体が車道へはみ出る。

 いけない。危ない。がくり、と膝から力が抜ける。


――ぶ……ん。


 周りの空気が振動している。空気だけでない。コウジの身体も振動している。身体の随所に触れた小さな振動同士が干渉しあって大きな波になり一気に身体すべてを揺らした、そんな気がする。


 コウジは道を踏みはずした。


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