呪文
「リア充、爆発しろー」
「りあじゅー、ばくばくしろー」
「ばくばくー」
「しろー」
「わふーん」
まぶしい。
明るい光、やわらかい緑の萌える庭で幼子たちの明るい声が響く。柴犬がいっしょにはしゃいでいる。
春たけなわ。八重山吹と山桜は花の盛りを迎え、はらりはらはらと散り始めている。
休日の午後。さんさんと降り注ぐ太陽の光で温められ湿り気を帯びた空気が地面から立ちのぼる。草が萌え、生き物が眠りから目覚め、そして代を継いでいく。花や新緑のはなやかで貴い香気に生死の入れ替わる臭気が微かに漂う。
姉や従姉たちといっしょに叫んでいるつもりなのか、縁台に腰かける青年の膝の上で赤子が
「あぐあぐううう」
と機嫌よく手足をばたつかせる。
「上手だなあ。元気のいい声で、すごくいいぞ」
ころんころんとまろぶように走り寄る幼子たちに青年が微笑みかける。老犬もお行儀よく座り、青年を見上げる。
「お嬢さんたち、――立派な魔女になるつもりがあるのなら、呪文を正しく唱えなくてはならない」
「どうちてー?」
にこやかだった青年が急に深刻な表情を浮かべ、声を潜める。
「――間違った呪文で、とんでもない魔法が生まれちゃったらどうする?」
はあああ、たいへん、なんてこと!
幼子たちは顔を見合わせ、口々に、しかし声を潜めて注意を喚起し合う。
「みそのちゃん、どうしましょう、この子まだちゃんといえないわ」
「がんばりゅ」
「あやめ、いえりゅもん。ちゃんといえりゅもん」
「あぐあぐううう」
「わふわふ」
「だめだめ、そもそも何言ってるか、ぜっんぜんわかんない」
だんだんと子どもたちの興奮が高まっていく。
「いえりゅもん、ちゃんといえりゅもん」
「どうするの、おそろしい魔法をよんでしまったら」
まあああ、たいへん、おそろしい!
幼子たちが顔を見合わせ息を呑む。メンバーのうちおよそ二名、意味が分からないままただ上の二人に合わせて息を呑むふりをしている。上の二人もただ「たいへん、おそろしい!」と言いたいだけに違いない。
「――お嬢さんたち」
青年が膝の上で機嫌よく手足をばたつかせる赤子をしっかりとホールドしなおした。
「だいじょうぶだ。まだきみたちにひみつのおどりを伝授してない。だから魔法の扉がいきなり現れたり、火の玉が落ちてきたりなんかしない」
「ほんとに?」
「――ああ、ほんとうだよ。それにこの魔法は、正しく唱えれば危険なものではない」
「魔女のたたかいの呪文ね」
「そうだ。正しく唱えれば、魔女たちは全員最強の戦士になれる」
「さいきょー」
「……すてき。おとこどもをぶっとばすのね」
ある意味危険な呪文だ。青年は苦笑した。
「だからお嬢さんたち、呪文を正しく唱える練習をしよう」
「わかった!」
「れんしゅー、すりゅ!」
「よし、練習だ。ぼくの後について正しく呪文を唱えよう。いいね?」
唇を引き結び、凛々しく頷き返す幼子たちを見遣り、青年は唱えた。
「リア充、爆発しろ!」
「りあじゅー、ばくばくちろー」
「いいぞお、ちゃんと唱えられるようになったらきみらは一人前の魔女で、しかも最強の戦士だ」
ふおおおおお。庭をはだしで駆け回っていた女児四人が青年を見上げ目を丸くする。
「れんしゅー、すりゅ! つよく、なりゅ!」
「みんな、ちゃんとただしくとなえましょう」
「りあじゅー、ばくばくー」
「ちがうちがう、りあじゅう、ばくはつしろー、だよ」
「わふわふ」
青年に支えられ、膝の上で赤子がぴいいん、と足を伸ばし背筋を伸ばした。
「あぐあぐうううううう!」
「あはははは、リア充、爆発しろー!」
青年の背後に冷気が凝る。
「――コウジ」
「げ」
女が一人、目を尖らせて仁王立ちしている。
「多美姉、おかえ――」
「コウジあんた、子どもたちになに言わせてんの。ご近所中にあの――益体もない、そして物騒でお下劣この上ない叫びが響き渡ってんのよ。三軒先のおばさんに『元気がよくてよろしいわね』なんて言われてわたし、ものすごく困ったんだから!」
「まあまあ、そう怒んなくても。みんな楽しそうなんだし。――おやおやみふゆちゃん、おねむかな」
膝の上の赤子がぐずり始めた。抱き上げると赤子はまるまるとした腕を伸ばし、ふくふくとした指でコウジの頬をぺちぺちと触れた。
「みんな、お土産においしいおやつを買って来たわよ」
多美が娘や姪たちに声をかける。
ふおおおお、おやつ! 縁台に殺到しようとした幼子たちをコウジは制した。
「お嬢さんたち、まずおかたづけだ。――なぜだか分かる子はいるかな?」
口々に幼子が答える。
「一人前の魔女になるためには呪文を正しく唱えるだけじゃ駄目」
「いつでも魔法をかけられるように、ゆだんなくおかたづけ」
「きれーきれーすりゅ」
「おたたづけ」
コウジが感極まった様子を見せた。
「お嬢さんたち、なんてすばらしいんだ! おじちゃんはもう何も思い残すことはない!」
わざとらしい演技だ。しかしほめられた幼子たちは顔を赤らめて喜び、年長の子を中心におままごとセットだのスコップだのを片付け始めた。
「コウジー」
「こーじー」
子どもらが多美の真似をして青年の名を呼ぶ。明るく日の射す春の庭で、はらはらと舞う花びらを浴びながらはしゃぐ幼子たちの姿がまばゆい。甲高い子どもの声で舌足らずに呼ばれる自分の名前。その甘い響きがコウジの胸を衝く。
多美が話しかけてきた。いつもと違って歯切れが悪い。
「コウジ、――あのさ、『リア充、爆発しろ』なんて子どもらに言わせちゃってさ、その、欲求不満だったりするわけ?」
「休日をすべて子守に費やす二十代のぼくの生活に不満がないとでもお思いか?」
「――いや、まあ、悪いとは思ってるんだけどさ」
「別にかまわないよ。姪っ子たちはかわいいし」
コウジは腕の中の赤子を寝かしつけるために立ちあがったが、一緒に立ちあがろうとする多美を止めた。
「多美姉、ちゃんとあの子たち、見といて」
「え? でも少しくらいは、ねえ。実家なんだし。あの子たちも慣れてるんだし」
「駄目」
にぎやかに笑いあいながら玩具をかたづける幼子たちに目を遣ってコウジは言った。
「ふうん。――おかたづけ、躾してくれるのは嬉しいけど、今日くらいはあとでわたしがやっといてもいいよ?」
「駄目」
多美はため息をついた。
「コウジさ、近頃ちょっと変だよ?」
「ぼくの困った癖があの子たちにうつってなきゃいいんだけどね。ちょっと気にし過ぎかな。――でもひとりも欠けちゃいけない。みんな大事だから」
ベビーベッドにみふゆをねかしつける手つきも、赤子を見つめるやわらかい表情もいつもどおりなのに、弟のどこか、なにかがおかしい。庭でせわしなく動き回る幼子たちを見守りつつ、多美は視界の隅で弟の姿を追った。何もおかしくない。どこも変なところなどない。強いて言えば、少し影が薄い気がする。
それだけだ。
子どもらの忙しない動きに心を奪われ、多美はすぐにそのことを忘れた。