虹の彼方
土砂降りの雨が降り、時折雷が落ちる夜のこと。
幼かった僕は一人で布団の中で震えていた。
その夜は母がいなかったため、僕はまるで一人ぼっちになったかのような不安に苛まれた。
そんな僕の頭を優しく慰めるように撫でたのは父だった。
仕事で毎晩帰りの遅い父が、その晩珍しく早く帰って来たのだ。
普段は家にいない父とどう接すればいいのか分からなかったが、優しい父の手の温もりに僕は確かに安堵した。
父は激しい雨の音で消されてしまうのではないかと思うほど小さく儚い声で僕に子守歌を歌った。
それは、驚くほど澄んだ綺麗な歌で僕は聞き惚れてしまった。
昔、眠れない夜に祖母が父に聞かせたという子守唄を。
* * *
「倉林さん、その椅子を庭に出してもらえますか」
本棚の隣りにぽつんと置かれた木製の古い椅子。
ところどころに疵があり、掛け布も破れている。
座るとギシギシと嫌な音を立てて今にも脚が折れそうだ。
どうしてこんな古い椅子を今までずっと使ってきたのか不思議だった。
父には有り余るほどの財力があったのに。
倉林はその埃が被った椅子を当然のように庭に運んでくれた。
父の運転手だった男の息子が倉林だ。
長身で人懐こく、安藤は重宝していた。
今も縁が無くなってしまった筈の安藤家の書斎の整理を無償で手伝ってくれる。
嫌がる顔一つ見せず。
「随分古い椅子ですね…」
「ええ。父は物を捨てれない人でしたから」
安藤は苦笑を浮かべた。
そんな風に言いながらも、本当は父の事なんてまったく知らない。
実の父でありながら好きな食べ物、嫌いな食べ物すら知らないのだから。
一ヶ月程前に亡くなった父に対してあまり良い思い出はない。
頑固者で変人、母と口論する姿ばかり見てきた気がする。
だが自分も妻を持つ身として、昔では考えられないほど今は父の気持ちがよく分かった。
会社での重責や親族の期待。
そして特に好きでもなかった女性との結婚。
もっと早く、父の気持ちをほんの少しだけでも理解できていたらと思う。
そうすれば、あんな惨い死に方をしなかったかもしれない。
安藤は父によく似た人生を送っている。
ただそこには心から愛するような女性に出会わなかったことだけが唯一にして最大の違いだ。
安藤は心が沈むままに亡き父の書斎を整理する。
母は父は毛嫌いしていた。
政略結婚だったと初めて聞いた時は随分と時代錯誤だなと呆れたものだ。
それも当人達の苦悩を思えばあまりにも気楽で薄情な考えだったと、今は思う。
父には心に決めた恋人がいたそうだ。
その恋人の話をする時、母の目には怖ろしいほどの憎悪が宿る。
母は父の事を嫌いながらも夫として自身の心の拠り所になって欲しかったのだと思う。
神経質で何事にも厳しく、棘のある薔薇のような母。
温和で百合の花が似合う清廉な少女だった父の永遠の恋人に、母は最期まで勝てなかった。
亡くなった父を最初に見つけたのは母だった。
それ以来母は塞ぎこみ、精神を病んでいる。
今も妻が見舞いに行っているだろう。
無理も無い。
寝室で夫の首吊り死体を見てしまったのだから。
安置所で見た時は思わず吐きそうになった。
通常の何倍にも伸びた痛々しい首。
ゴムを引き延ばしすぎて元に戻れなくなってしまったかのようだ。
首の骨は折れ、皮膚から露出していた。
変色した顔。
だらりと締まりの無い口から出る長い舌。
見目が良かった父だからこそ、余計にそれは無惨だった。
思い出して気分が少し悪くなった。
目敏い倉林が今日はもう整理を止めるかと聞いてきた。
首を振って安藤は机の引き出しの中を整理した。
いつの間にか雨が降っていた。
一気に振り出した雨は激しく、時折雷が落ちた。
「うわー土砂降りですね」
倉林が窓の外を見て呟いた。
激しい雨音が邪魔だと言うように、すぐさまカーテンを引いた。
遠くなった雨音。
引き出しの中を整理しながら安藤はあの夜の事を思い出した。
父が子守唄を歌ってくれた、優しい夜の事を。
* * *
「これはね、『Over the Rainbow』って言う歌なんだ…『虹の彼方』という意味だよ」
「にじ…の、かなた……?」
父の子守唄が効いたのか、僕の意識はゆらゆらと夢の国へ行こうとしていた。
父の話が聞きたくて、僕はぎゅっと唇を噛んで眠気を耐えた。
父は頭を撫でながら穏やかな微笑みを浮かべる。
雨は弱まり、もう雷は落ちてこない。
「昔の、『オズの魔法使い』という映画の中でドロシーが歌った曲だよ」
「ドロシー、僕もしってるよ…ようちえんで読んでもらった……」
「そうか…よかったな」
「ドロシーがたつまきでオズの国に家ごととばされちゃうんだ…わるいまじょが家におしつぶされて…」
今にも途切れてしまうのではないかと思うほど眠たそうな声で僕は一生懸命父に話した。
幼稚園で聞いた「オズの魔法使い」の物語。
僕が話せば話すほど父の手が温かくなったような気がした。
父の笑顔がもっともっと見たかった。
灯りが消えた部屋の中。
開け放たれた扉から漏れる光しかなかった。
父の笑顔がもっと見たいのに、と残念に思った。
「父さん…にじのかなたには、何があるの?」
父の慈愛に満ちた笑顔は後にも先にもそれが最初で最後だったと思う。
* * *
いつの間にか物思いに沈んでいた安藤を倉林は心配そうな眼差しで見た。
それに気付いた安藤は苦笑し、休憩することにした。
この人の良い若者にこれ以上心配をかけさせたくなかったからだ。
父が死んでから周りは安藤を腫れ物に触れるかのように接する。
もういい年なのに、父の死、たとえそれが惨いものであったとしても、安藤は母のように壊れることはない。
薄情かもしれない。
だが、本当に薄情なのは間違いなく死を選んだ父の方だ。
床に座りっぱなしで硬直した筋肉を伸ばしながら、雨の音が止んだことに気付いた。
気分転換にカーテンを開けると、眩しい陽の光りが安藤の目を刺した。
隣りに倉林が立つのを感じた。
「さっきまでの雨が嘘のようですね~」
「本当だ。夕立だったのかな」
「あー…もう夏かー」
いい空気ーと嬉しそうに倉林は窓を開けて冷たい雨の匂いがする空気を吸った。
夏が特に好きだと言う倉林があまりにも似合いすぎて思わず噴出してしまった。
それに不思議そうに目線で語りかけてくる倉林に微笑みながら光りに慣れた目で空を仰いだ。
そして安藤は目を見開いた。
風が乱雑に置かれた床の本の頁を数枚捲った。
雲から差す太陽の光りに目を細めながら、倉林も安藤の視線の先に気付いたように、無邪気にはしゃいだ。
「安藤さん!見てください、虹ですよ、虹!」
目に痛い、鮮麗な虹が、確かにそこにはあった。
安藤の心を刺す、綺麗すぎるほど綺麗な虹が。
なんて眩しい光景だろうかと安藤は思った。
それは未来への希望を抱かせるような、神秘的で眩しいものだ。
虹を見て子供のようにはしゃぐ倉林。
ケータイで虹の架かった空の写真を撮りながら彼は何度も綺麗だ綺麗だと言う。
その姿に安藤は胸を痛めた。
倉林がひどく純粋で無垢な存在のように思えた。
それに比べ、自分はどうだろう。
「安藤さん?」
どうしたんですか?そんな暗い顔をして。
顔を覗き込む倉林に驚きながら安藤は今日で何回目になるのかも忘れた苦笑を浮かべた。
他人の機微に敏感すぎる所は倉林の美点だとつねづね思うが今日ばかりは憎らしい。
まさか倉林の穢れの無さに嫉妬したのだとは言えない。
父の言葉が脳裏に突き刺さる。
「…倉林さんは、虹の向こうに何があると思いますか?」
「虹の向こう?」
安藤には少しばかり不釣合いなファンタジーな話に倉林は興味深そうに耳を傾けた。
「虹の向こうには………、『夢の国』があるんですよ」
「夢の国ですか?」
「ええ。苦痛も苦悩もない、青い鳥と幸福だけが満ちている夢の国です」
ベタな話でしょ?と安藤は苦笑した。
本当に、苦笑いするのはこれで何回目だろう。
虹を見て感傷に浸るなんて。
女々しい自分に呆れてしまう。
それでも隣りにいる倉林は安藤の話を素直に聞いていた。
そこには戸惑いも呆れも侮蔑もない、本当に素直な姿勢が窺える。
倉林はきっと、誰かを救うために生まれてきた貴重な人間だ。
それならば父はどうだろう。
誰かを突き落とす、何人もの人々を不幸にするためだけに父は生まれたのだろうか。
家族も恋人も、何一つ守れず父は逃げ出してしまった。
父の昔の恋人が病死したと、父の葬式の数日後に知った。
それが母を壊す決定的なものとなった。
命を捨ててまで、父は恋人の死に絶望したのか。
今でも恋焦がれていたのか。
母の事も、息子の事も、会社の事も、今まで関わってきた全ての人達を捨ててまで。
今も昔も、自分が捨てた恋人が父の全てだったのだ。
虹の向こうへ。
虹の彼方の夢の国に。
父は旅立ってしまった。
いつの間にか安藤は口ずさんでいた。
それは驚くほど彼の父の声に似ていた。
倉林は驚きながらも安藤の歌を静かに聴いた。
どこかで聞いたことがあるような切ない哀愁がつまった異国の歌に聞き惚れた。
虹の彼方に広がるのはなんて事のない、平穏。
いつもの日常だと言ったのは、父だったのに。