8
誰もいなくなったプールを何往復も泳ぎ続ける。ゴールで僕のことを見守ってくれていた、朱里の姿はもうない。
朱里はあれから部活に来なくなってしまった。
「はぁ……」
深くため息をついてから息を吸い込み、もう一度水の中に潜る。ふと目の前に感じる、人の影。
『真尋っ……たすけてっ……』
蒼太? 僕は右手を思いきり伸ばす。だけどその手は蒼太に届かない。
『たすけてっ……真尋、たすけて……』
水中に響く僕を呼ぶ声。助けなきゃ、助けなきゃ……今度こそ僕が、蒼太を助けなきゃ……。
「真尋っ!」
はっと気がつき目を開けた。真夏のうだるような陽射しが頭の上から照りつける。
「水遊びのあとはお昼寝か?」
フェンスにもたれかかって、うたた寝していた僕を、蒼太が見下ろすようにして笑った。
午前中の練習が終わり、プールサイドにはひと気がなかった。
「何しに来たんだよ? 部外者は立ち入り禁止だぞ」
きっと補習の帰りなんだろう。蒼太は制服姿で、半分寝ぼけたままの僕の脇に立っている。
「おれ、美穂ちゃんにフラれた」
「え?」
「『蒼太くんはあたしのことなんか好きじゃないのね!』ばっちーんって平手打ち」
ざまあみろだ。
「それでもいいって言ったくせに。女ってわっかんねー!」
蒼太が僕の隣にしゃがみこみ、体ごとフェンスにもたれかかる。僕はそんな蒼太の顔をのぞいて、吹き出すように笑ってやった。
「マジで殴られたんか。そこ、赤くなってるぞ?」
「いい男が台無しってか?」
「自分で言うな」
蒼太が前を見たまま、ふっと笑う。僕も蒼太から視線をそらし、目の前のプールに目を向ける。
ゆらゆらと揺れている水面は、真夏の青い空の色だ。
プールサイドのフェンスにもたれて、僕たちは今、同じものを見つめていた。
「……朱里は?」
しばらくの沈黙のあと、蒼太がつぶやく。
「いない」
「ふうん」
どうでもいいように蒼太は言ったけど、もしかして朱里に会いに、ここに来たのかもしれない。
「おれが……朱里を怒らせたから」
そう言いながら僕は、ちらりと蒼太の横顔をうかがう。
「おれさ、朱里は蒼太のこと好きだと思ってて……だからお前らが付き合えば一番いいって思って」
黙ったままの蒼太に、僕は続ける。
「でも……違ったみたいだ。朱里には好きな人がいる」
「お前の兄貴だろ?」
呆然とする僕の隣で、蒼太が軽く笑って立ち上がる。
「し、知ってたのか?」
「お前こそ、知らなかったのか? 鈍いやつだな、ほんとに」
ああ、気づかなかった。そんなこと、全く思ってもみなかった。蒼太の言うとおり、僕はどこまで鈍感なんだ。
「朱里はずっと好きだったんだよ。お前の兄貴のこと」
僕はフェンスにもたれたまま、蒼太のことを見上げる。
「でも、おれが殺した。朱里が好きだった、お前の兄貴を……おれが殺した」
違う――違う。違う。そうじゃない。
胸の奥に、どうしようもない感情が湧き上がってくる。
「だろ? 真尋」
「……違う」
「お前だって内心そう思ってる。なんで助けに来た兄貴が死んで、溺れたおれが生きてるんだって……兄貴じゃなくて、おれが死ねばよかったのにって……」
「そんなこと思ってない!」
「朱里だって、きっとそう思ってる」
蒼太が僕の顔を見た。生きているのか死んでいるのか、わからないような目をして。
一緒にクワガタ採りに出かけた時の、目を輝かせていた蒼太は、僕の前にはもういない。
『お兄ちゃんは、後悔なんかしてないよ?』
僕の耳に、いつかの朱里の声が聞こえてくる。
『あの日川に飛び込んだこと、お兄ちゃんはきっと後悔してない』
そうだ、朱里はそう言った。朱里は蒼太のことを、恨んだりしない。
僕に背中を向けて、歩き出そうとした蒼太を引き止める。
「朱里のことをバカにするなよ!」
蒼太が不思議そうな顔をして振り向いた。
「朱里がそんなこと思うわけないだろ! 朱里はそんな人間じゃない!」
腕を伸ばして蒼太の右手をつかまえた。あの時つかめなかった蒼太の手を、僕はやっと今、つかまえた。
「信じられないなら自分で聞け。おれが死ねばよかったですかって、自分で朱里に聞いてみろ!」
蒼太は黙って僕を見ていた。どうしてだかわからないけど、僕の目からは涙があふれていた。