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7/12

 夏休みが始まって数日が経った。

 僕は毎日学校のプールへ通い、水泳部の練習をほどほどにこなす。

 大会前とはいえ、強豪校でもなく、特別すごい選手がいるわけでもない僕らの部活は、あいかわらずのんびりとした雰囲気だ。

 午後の全体練習が終わった後、更衣室に向かおうとしていた朱里に、僕は言った。

「今日、先に帰っていいよ」

「え?」

 スイミングキャップをはずし、濡れた髪をかき上げながら、朱里が不思議そうな顔をする。

「おれ、もう少し、泳いでいきたいから」

 朱里は一瞬きょとんとしていたが、すぐに笑顔になってこう言った。

「じゃあ、あたしも残る」

「え、いや……でも」

「なんで? あたしがいたら迷惑?」

 朱里は一緒にいた友達に別れを告げ、さっさとプールサイドに戻っていく。

「さ、真尋。練習、練習!」

 そう言って無邪気に笑う朱里の顔は、兄を追いかけて走り回っていた、あの頃の朱里のようだった。


 水の中に飛び込み、プールの底に届くまで潜る。冷たくて音のない世界が、僕の体を包み込む。

 小さかった頃のように、なにも考えずに泳げたら、どんなに気持ちいいかと思う。だけど、どうしても考えてしまうのは、やっぱり兄のこと。

 美しいフォームで泳ぐ兄の姿は、誰よりもカッコよくて、僕の憧れだった。

 兄が亡くなったあとも、兄の記録を抜かせたら何かが変わるんじゃないかって、それだけを思って泳いできたけど……結局僕は、その記録を抜かせないまま、兄の歳を追い越してしまった。

 あんなに大人で、カッコよく見えた十六歳も、過ぎてみればどうってことない。

 水の中をもがくように僕は生きる。

 このままでいいわけないってわかっているけど、どうしたらいいかわからない。

 プールの真ん中で足をついた。十メートル先のゴールに朱里の姿が見える。

「真尋? どうしたの?」

 真夏の日差しを浴びた朱里の顔を見つめながら、ふと、あの日のことを思い出す。

 あの日――僕はこうやって朱里に見て欲しかった。朱里に「すごい」って言って欲しかった。「蒼太よりすごい」って言って欲しかった。だから蒼太を誘った。蒼太に負けたくなかったから。

「真尋っ」

 ひと気のないプールサイドで、朱里が僕の名前を呼ぶ。その声を頼りに、僕はもう一度泳ぎ始める。

 なんだ、とっくに気づいていたじゃないか。

 蒼太の視線の先にいつもいた女の子。それが朱里だったってこと。

 右手を伸ばして壁に触れて、水の中から顔を上げる。僕の目の前で朱里が微笑む。

「朱里」

「ん?」

 プールの中をのぞきこむように、身を乗り出す朱里。

「頼みがあるんだけど」

「頼み?」

 こんなことを言うなんてバカみたいだと思う。僕は絶対どうかしている。

 でももしかしてこれが、教科書通りにいかないってやつなのだろうか。

「蒼太と……付き合ってやってくれないかな?」

 チャイムの音が風に乗って流れてくる。空はすっかり夕焼け色だ。

 朱里はぼんやりした顔で、じっと僕のことを見つめている。

「蒼太には美穂じゃなくて、朱里が必要だと思うんだ」

 誰もいないプールサイドに、僕の声だけがひっそりと響いた。


「真尋おかしい。意味わかんない」

 それが僕の頼みに対する、朱里の返事だった。

「蒼太は美穂ちゃんと付き合ってるの。美穂ちゃんの彼氏なの」

 そんな当たり前のことはわかってる。わかってるけど……。

「でも蒼太は美穂のことを好きじゃない。好きでもないのに付き合ってる。おかしいのはあいつのほうだ」

 僕の隣を歩きながら、朱里はふうっとため息をつく。

「……あたしだって、蒼太のことは心配してるよ?」

 朱里のつぶやくような声が、夕暮れの風に流れる。

「だったら……朱里は蒼太のことよくわかってるし、あいつもきっと朱里のこと……」

「あたしのこと?」

 息を呑み込み、朱里からさりげなく目をそらしてつぶやく。

「きっと、好きだと思う」

 土手の上で朱里が立ち止る。僕も立ち止り、ゆっくりと朱里に視線を移す。

「……あたしの気持ちは?」

 朱里はうつむいて、ほんの少し震えていた。

「あたしの気持ちは……どうでもいいの?」

「それは、その……朱里だって蒼太のこと好きだろ?」

「なんでそんなこと決めつけるのよっ! バカっ!」

 朱里は右手をぶんっと振って、持っていたバッグで僕のことを殴る。

「真尋のバカ! あんたはなんにもわかってない!」

「ちょっ……待て。じゃあ朱里の気持ちって……」

 朱里の気持ちってなんなんだ?

 ずずっと鼻をすすって、朱里は切ない目をして僕を見る――いや、違う。

 朱里は僕を見ていない。

「あたしは……誰とも付き合ったりしないから」

 涙声で朱里が言った。

「お兄ちゃん以外の人と……付き合ったりしないから」

 呆然と突っ立ったままの僕を残して、朱里が走り去って行く。僕はその背中を見送りながら、忘れかけていた記憶を呼び覚ます。

『お兄ちゃんがね、朱里のこと、ひまわりみたいだねって言ったの』

 タンクトップにショートパンツ姿で、嬉しそうにそう言う朱里に、僕は「ふーん」とだけ答えたと思う。

『お兄ちゃんはね、ひまわりの花が大好きなんだって』

 そんなことは、小学生だった僕にとってはどうでもいいことで……僕は向日葵の花より、蒼太と約束したクワガタ採りの計画で頭がいっぱいで……幸せそうに笑った朱里の顔なんて、僕の記憶から完全に忘れ去られていた。


 朱里はあの頃から兄のことが好きだった。

 朱里はいつだって僕の顔を見ながら、僕が少しだけ持っている、兄の面影を追いかけていたんだ。

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