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僕たちが小学六年生だった夏。あの夏はとても暑い夏だった。
もうすぐ夏休みという学校の帰り道、僕はいつものように三人で歩きながら、蒼太に言った。
「なぁ、ちょっと川で遊んでいかないか?」
蒼太が面倒くさそうに僕を見る。
「暑いから、泳いで帰ろうよ」
「このまま?」
「そう。このまま」
僕たちは体育の授業で使ったプールバックを持っていた。
「なに言ってるの? 子供だけで川に行っちゃダメだって、先生が言ってたでしょ?」
横から口を挟んできたのは朱里だ。今と変わらないショートカットで、肌は真っ黒に日焼けしている。
「いいじゃん、ちょっとだけ。なっ、蒼太?」
「おれ、泳げないもん」
「おれが教えてやる。兄ちゃんに速く泳げるコツ、教えてもらったんだ」
四歳年上の僕の兄は、高校で水泳部に入っていた。その兄に泳ぎを教えてもらったばかりの僕は、それを見せびらかしたくてうずうずしていたのだ。
朱里に――「すごい」って、言って欲しくて。
「行こうぜ、蒼太」
僕は無理やり蒼太の手をひっぱって、夏草の茂った土手を駆け下りる。
「ちょっと、ふたりとも! 先生に言いつけるからね!」
文句を言いながら、朱里も僕たちのあとをついてくる。
小さい頃から遊び慣れた川だった。この辺は流れもゆるやかだし、僕たちが泳げるほどの丁度良い深さもある。
プールバックから水着を引っ張り出し、さっさと着替えた。気乗りしないような蒼太をうながし、ふたりで水の中に入る。
七月とはいえ、川の水は冷たかった。だけどそんなことよりも、僕は朱里に見て欲しかったんだ。
僕は兄に教えてもらったように泳ぎながら蒼太を呼んだ。
「もっとこっち来いよ」
蒼太は水しぶきをばしゃばしゃ上げて泳いでいる。本当にこいつ下手くそだ。
「真尋、待って……」
「ほら、もっとこっち」
かすかな優越感に浸りつつ、ちらりと川岸に立っている朱里を見た時、蒼太の体が水の中に沈んだ。
「……蒼太?」
がばっと顔を上げた蒼太は、水中でもがくように手足をばたばたさせている。
溺れてる? どうして? 深みにはまったのか?
頭の中が真っ白になる。
「真尋っ! たすけてっ……」
蒼太の声が水の中に消えていく。朱里の叫び声が遠くで聞こえる。
助けなきゃ……蒼太を助けなきゃ……だけど精一杯伸ばした僕の手は、蒼太の手には届かない。
「蒼太っ!」
蒼太と同じように水中でもがいた。必死に追いかけるけど、蒼太の体はどんどん遠くに離れて行く。
無理だ……誰か……誰か助けて……。
助けを求めて川岸を見た時、誰かが川に飛び込むのが見えた。
「……兄ちゃん!」
兄が蒼太に向かって真っすぐ泳いでくる。何度もプールで見て、憧れていた兄の泳ぐ姿。
「蒼太っ! 大丈夫か!」
蒼太の体を兄が引き上げる。
助かった……。朱里が呼んできたのか、川岸に大人たちが集まっている。
ああ、きっと、お母さんに怒られるな……。
そんなことを思った瞬間、僕の目の前で、ふたりの姿が水の中へ消えていった。
***
「なんだよ? 話って」
休み時間に僕を廊下に呼び出したのは、隣のクラスの朱里だった。
「ん……ちょっと。誰にも言わないでね?」
困ったように首をかしげて、僕の顔をのぞきこむ朱里。
真っ黒で細くて、男の子みたいだった朱里が、こんな可愛らしいしぐさをするようになったのは、いつからだろう。
「なに? 早く言えよ」
僕はわざと突き放すような態度で朱里に言う。
「うん……あのね。水泳部の一年生の美穂ちゃん、真尋も知ってるよね?」
「ああ」
朱里のことをいつも追いかけている、人懐っこい後輩だろ。
「あの子にね……蒼太のこと、紹介して欲しいって言われたの」
「え?」
「蒼太と、付き合いたいんだって」
驚いた顔をしてみたけれど、実際そんなにショックではなかった。
いつもへらっとしていて、僕のことも友達のことも、冷めたような目つきで見ている蒼太は、どうしてだか女の子にモテる。
彼女でもない人とキスするような、あんないい加減なやつを好きになるなんて……女の子っていうのは、本当にわからない。
「……どうしたらいいと思う?」
朱里が僕の前でぽつりとつぶやく。
「どうしたらって……いいんじゃない? 紹介してやれば。おれはオススメしないけどな」
朱里は小さくため息をつくと、僕から目をそらして窓の外を見つめた。
「そういえば真尋、この前蒼太に会えたの?」
僕は言葉をつまらせる。朱里に、蒼太が河原でしていたことを話したら、どんな顔をするだろう。
「会えなかった」
「……そう」
「とにかくその話は、朱里が決めろよ? おれは関係ないから」
僕の前で朱里が黙り込む。唇をきゅっとかみしめて、少しだけうつむく。
どうしてだよ? なんでそこで黙るんだよ?
僕はずっと胸の中に押し込めていた気持ちを、朱里に向けて吐き出した。
「もしかして朱里も、蒼太のこと好きなんじゃねぇの?」
朱里がはっと顔を上げる。首を振るわけでも、うなずくわけでもなく、ただ呆然としたような表情で僕を見つめる。
「……なんで、そんなこと言うの?」
「いや……なんとなくそう思ったから」
ゆっくりと背中を向ける朱里。
僕たちの脇を、女の子たちが笑いながら通り過ぎる。休み時間はもうすぐ終わる。
「あたしは……」
背中を向けたままの朱里がつぶやく。
「蒼太も真尋も……同じくらい好きだよ? でも付き合いたいとか……そういうんじゃない」
チャイムの音が廊下に響く。朱里が小走りで、僕の前から去って行く。
フラれたのか? 僕は自分の気持ちを伝える前に、朱里にフラれたのか?
廊下の窓から蒸し暑い風が吹き込んだ。
朱里はスカートをかすかに揺らして、教室の中へ消えていく。
美穂と蒼太が付き合い始めたと聞いたのは、それから少したってのことだった。