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それからしばらくして蒼太はこの町を出て行き、その半年後、ヨシノさんたち三年生が卒業を迎えた。
まだ花の咲いていない桜の木の下で、卒業証書の筒を持ったヨシノさんが、僕のことを呼ぶ。
「真尋くん」
風に揺れる髪を耳にかけながら、ヨシノさんは僕に笑いかける。
「お別れね」
「そうですね」
春からヨシノさんは東京の大学生だ。この狭い町から飛び出して、都会で暮らし始める。
「気をつけてくださいよ。東京にはアブナイ男がたくさんいるから」
「やだぁ、お父さんみたいなこと言ってる」
僕の前でくすくす笑うヨシノさん。
「簡単に男を部屋に入れたらダメですよ」
「入れたりしないって」
気が済むまで笑った後、ヨシノさんは僕の耳元に顔を寄せ、小声でささやく。
「ひとつ言っておくけど。あたし蒼太と、キス以上のことはしてないから」
突然の発言に、僕は思わず言葉を詰まらせる。
「そ、そんなこと、聞いてないでしょ?」
「そこ、真尋くんにとっては、大事かなぁって、思って」
ヨシノさんは卒業証書の筒で、僕の頭をコツンと叩く。そして「またね」と微笑み、小さく僕に手を振った。
最後の制服姿のヨシノさんが、背中を向けて去って行く。
彼女は今、誰を想っているんだろう。これから、誰を想って生きていくんだろう。
「真尋」
振り向くと、朱里がそこに立っていた。
「帰ろ?」
「うん」
僕と朱里はいつものように並んで歩き出す。
蒼太がいなくなっても、ヨシノさんがいなくなっても、それは変わらず続いている。
だけど、川の流れが分かれるように、僕たちの行き先も少しずつ違っていって……一年後、僕は東京の大学に進学し、朱里は地元の小さな事務所に就職した。
「一年って早いね?」
「朱里、髪、伸びたな」
東京で暮らし始めてからも、僕は兄の命日には毎年田舎へ帰り、朱里に会った。
朱里はこれまでと同じように向日葵の花束を持って、あの場所へ現れる。一年一年、歳を重ねるごとに、朱里は綺麗になっていくような気がした。
だけど、お互いの近況を報告し合う中、朱里に恋人ができたという話は聞かなかった。
やがて四年が過ぎ、大学を卒業すると、僕は東京の会社に就職した。
仕事が忙しくなり、めったに田舎に帰ることもなくなったけれど、命日の日だけはどんなに遅くなっても、地元に足を運んだ。
だけどもう、朱里と連絡を取り合うこともなくなって……ただ、僕が行くと必ず、あの場所に向日葵の花が供えられていた。
朱里が来たんだ。そう思うだけで胸の奥が熱くなった。
けれどそんな僕も、兄が亡くなって十五年後の今年、地元の知り合いだった彼女と籍を入れた。
***
土手の上に車を停め、僕はゆっくりと河原へ降りる。
やっぱり今年もその場所に、向日葵の花は置いてあった。ただひとつ、いつもと違うのは、花の下に白い封筒が添えられていること。
なんだろう……僕は花束と封筒を手に取り、封筒の中に入れられてあった、一枚のはがきを目にする。
「真尋ー!」
土手の上から声がした。車から降りた彼女が、おぼつかない足取りでこちらに向かって降りてくる。
僕の奥さんである彼女は、妊娠十か月のお腹を抱えていた。
「危ないから、車で待ってろって言ったのに」
「臨月の妊婦だって、少しは動いたほうがいいの。真尋は過保護すぎるのよ」
彼女は僕の隣に立ち、ふうっと息を吐きながらお腹をさする。
結婚前も、結婚後も、僕は彼女の言動に振り回されっぱなしだ。
「その向日葵、きれいねぇ」
僕の持っていた向日葵を見て、彼女が言う。
「そうだね」
僕はその花をそっと川へ流す。ゆるやかな流れに乗って、黄色い向日葵の花は、僕たちの前から消えていく。
川から心地よい風が吹いてきた。水面に映る空の色は、昔となにも変わっていない。
僕と彼女はしばらく黙って、川の流れを見つめていた。
「……ねえ、真尋、覚えてる?」
やがて彼女が僕の顔をのぞきこみ、いたずらっぽく笑いかける。
「あたしがここでキスしてた時、あなたあの土手の上から、口をぽかんと開けて見てたのよね?」
「……今、そういう話をするかなぁ?」
「今だからできるんでしょ?」
彼女はくすっと笑うと、僕の腕に手を絡ませてきた。
「妬けちゃう?」
「べつに」
「あの子、どうしてるかなぁ。ちょっと会ってみたいな」
「会ってみる?」
僕は手に持っていたはがきを彼女に見せる。
写真付きのはがきに印字された『結婚しました』の文字。その下に懐かしい女の子の字で、『真尋は祝福してくれる?』と書かれている。
「ええー? これって蒼太?」
「みたい」
「うそぉ、結婚したんだぁ」
似合わない衣装を着た蒼太の隣で、真っ白なドレス姿の朱里が、幸せそうに微笑んでいる。
なんだ、そういうことか。もう僕が心配することは、なんにもないじゃないか。
「いいなぁ、結婚式」
僕たちはちょっとした手違いで、先に子供ができちゃったから、式をまだ挙げていない。
「おれたちもやる?」
「無理でしょ、このお腹じゃ」
「もちろん産まれてきてから、三人で」
僕の隣で彼女――芳乃が微笑む。そして僕の腕を両手でぎゅうっと抱きしめる。
苗字だか名前だかわからなかった「ヨシノ」は下の名前で、僕と結婚した「ヨシノさん」は、安藤芳乃になった。
「いたっ、痛いよ。ヨシノさん」
「いいの! 三人になったら、こういうことできなくなっちゃうでしょ?」
ちょっと強引な愛情を受けながらも、僕はきっと幸せなんだと思う。
そしてこんな僕たちのことを、兄は苦笑いしつつ、見守ってくれているだろう。
芳乃の手を引き、土手をのぼる。ゆっくりとゆっくりと一歩ずつ。
あの頃、青いプールの底をもがくように泳ぎながら、ぼんやりと思い描いていた未来。それとはちょっと違うけれど、僕はこうやって彼女と、ずっと並んで歩いていきたい。
僕たちの子供がもうすぐ産まれる。
落ち着いたら子供を連れて、あのふたりに会いに行こうと思う。




