11
誰もいないプールを僕は泳ぐ。
田舎の古い県立高校に、屋内プールなんて洒落たものはあるわけなく、僕たちは夏が終わると同時に、ほぼ活動休止状態になる。
過ぎゆく夏を惜しむかのように、ひんやりとした水の中をただ泳いだ。
その先に、なにが待っているのかはわからないけど、立ち止まったらきっと溺れてしまうから……下手くそでも、ただ泳ぎ続けるだけだ。
僕も、朱里も、蒼太も……。
「真尋」
はあっと息を吐きながら顔を上げる。プールサイドから僕を見下ろす朱里の姿。
「そろそろ上がったら? 体冷えるよ?」
朱里の声にうなずいて、僕はプールをあとにする。
肌に当たる風は冷たく、季節はもう、変わり始めていた。
いつもの校門前で待ち合わせしてから、朱里と一緒に帰り道を歩く。
「なんか、雰囲気変わったな?」
「え?」
「髪、伸びた?」
朱里は自分の髪に手を当てて、照れくさそうに僕に言う。
「ちょっとね……伸ばそうかな、なんて思って」
「へえ……」
そういえば朱里は、物心ついたころから、ずっとショートカットだ。
「似合うと思う?」
「うん。朱里の長い髪も見てみたい」
僕の隣を歩きながら、朱里は嬉しそうに微笑む。
蒼太が学校を辞めて、三日が経った。朱里はその話題に触れてこない。
どう思っているんだろう。朱里は蒼太がいなくなってしまうこと、どう思っているんだろう。
「ねえ、真尋。このあと暇?」
朱里が放課後のことを聞いてくるなんて、めずらしかった。
僕たちは毎日一緒に下校していたけど、それ以外で会うことはなかったから。
「べつに、暇だけど?」
「ちょっと、付き合ってもらいたいところがあるの」
朱里はそう言って、少しいたずらっぽく笑った。
いつもの土手の上から朱里が叫ぶ。
「蒼太ー!」
河原でぼんやりと突っ立っていた蒼太が、僕たちに振り向く。
朱里はそんな蒼太に手を振ると、僕の腕を引っ張るようにして、蒼太のもとへ駆け寄った。
「なんだよ? こんな所に呼び出して」
蒼太は相変わらず、面倒くさそうに朱里に言う。
「うん、あのね……蒼太に……渡すものがあって……」
途切れ途切れに言葉をつなぎながら、朱里はバッグの中から懐かしいものを取り出した。
それは――僕の兄が、いつもプールで使っていたゴーグルだった。
「これ、お兄ちゃんのなの」
朱里の声と同時に遠い記憶がよみがえる。
あの夏、僕らは三人一緒に、兄の試合を見に行った。
プールで誰よりも速く泳ぐ兄の姿は、ものすごくカッコよくて、美しくて、小学生の僕たちでさえ、ため息をもらしてしまうほどだった。
その頃、兄がいつも使っていたゴーグルを、どうして朱里が持っているのだろう。
「あたしずっとね、男の子になりたかったんだ」
朱里がかすかに微笑んで、兄のゴーグルを愛しそうに両手で包む。
「だってあの頃のあたしから見たら、お兄ちゃんはすごく大人で、絶対あたしなんか相手にしてもらえないって思ったから……だったらあたしも男の子になって、蒼太みたいにずっと、お兄ちゃんにくっついていたかったの」
「おれみたいに?」
小さくつぶやく蒼太の前で、朱里がうなずく。
「あたし、お兄ちゃんに可愛がられてた蒼太のこと、すごく羨ましかった」
僕は朝から晩まで、裸足で草むらを駆け回っていた、あの頃のことを思い出す。
あの頃、僕たちはなんでも一緒だと思っていたけど……僕と蒼太は男の子で、朱里は女の子だったんだ。
そして女の子だった朱里がそんなことを考えていたなんて、僕には想像もつかなかった。
「水泳部の試合を見に行った日、蒼太、お兄ちゃんみたいになりたいって言ったよね?」
「覚えてねぇよ」
朱里は小さく笑って言葉を続ける。
「あたしがそれを話したら、お兄ちゃんすごく嬉しそうな顔して、『じゃあおれの一番大事な物、蒼太にあげようかな』って。『おれみたいになりたければ、これを使って、少しは泳げるように努力しなくちゃな』って」
朱里が手を伸ばして、蒼太の前に兄のゴーグルを差し出した。
「その時あたしは頼まれたの。これを蒼太に渡してって」
「じゃあなんで今ごろ?」
つい口をはさんだ僕に向かって、朱里が寂しそうに振り返る。
「だって悔しかったんだもん。蒼太だけずるいって……あたしもお兄ちゃんの大事な物、欲しかったんだもん」
朱里の声が震えている。蒼太はそんな朱里の前で、なにも言わずに立っている。
「そしたらお兄ちゃん死んじゃって……あたしどうしたらいいか、わからなくて……」
涙声でそう言いながら、朱里はゆっくりと顔を上げて蒼太を見る。
「でもやっぱりこれは、蒼太のものだから。蒼太に渡さなくちゃって思って……」
「いらねぇよ、そんなの。朱里が持ってればいいだろ?」
蒼太は朱里の手を、強引に押しのける。
「蒼太……」
朱里の声が風に流れた。
「お兄ちゃんは蒼太のことを大事に思ってたよ? だからあの日、迷いもしないで川の中に飛び込んだんだよ?」
一言一言、自分自身に言い聞かせるようにしながら、朱里は僕にも言う。
「お兄ちゃんは誰のことも恨んだりしてない。蒼太のことも、真尋のことも……」
そのあとは声にならなかった。朱里は涙をこらえるようにしながら、もう一度ゴーグルを蒼太に握らせる。
「だからもう……ふたりとも苦しまないで」
僕はぼんやりと蒼太の横顔を見た。蒼太は手の中のゴーグルを一度だけ握りしめると、やっぱりそれを朱里の胸に押し付けた。
「これ、やっぱり朱里が持ってろ」
「だってそれは、蒼太のものだから……」
「おれのものをお前に預ける。いつか必ず返してもらうから」
真っ赤な目をした朱里の前で、蒼太はいつものように少しだけ笑う。
「おれは必ず帰ってくるよ。兄ちゃんに、『蒼太、少しは努力したな』って認めてもらえるような、まともな男になって」
「蒼太……」
「だから……だからその時は朱里……」
そこまで言って、蒼太は言葉を切った。朱里と僕から視線をそらして、背中を向ける。
「やっぱいいや。おれ、もう行く」
「おい、蒼太!」
僕の顔をちらっと見て、照れ隠しのように笑うと、蒼太は土手の上へ駆けのぼった。
バカだな、あいつ。肝心なことを言わないで。
振り返ろうともしない蒼太のことを、朱里はずっと見つめていた。
胸に大切そうに、兄の形見を抱きしめながら……。




