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僕らが生まれたあの町は、緑が生い茂る山々と大きな川が流れているだけの、本当になんにもない町だった。
中学高校時代、水泳部だった僕の思い出といえば、学校のプールの匂いや眩しい太陽。それから水しぶきを上げながら泳ぐ、あの子の姿。
将来のことなんか考えられなくて、僕たちはただ今だけを生きていた。生きる意味さえもよくわからずに、ゆらゆらと水の中を泳ぐように……ただ今だけを生きていた。
***
「真尋! ごめんね、遅くなって」
橙色の空の下、高校の校門前で待っていた僕に、朱里が駆け寄ってきた。
「更衣室出ようとしたら、美穂ちゃんに声かけられちゃって」
そう言って朱里は僕の隣に並び、にこっと微笑む。
「いいよ、別に」
「じゃ、帰ろ」
どちらともなく一歩を踏み出し、僕たちは並んで歩く。朱里のショートカットの黒髪は、まだしっとりと濡れている。
朱里は僕の幼なじみだ。と言っても、この小さな町では、小中高とずっと同じ学校に通うやつが大勢いる。つまりクラスメイトのほとんどが、幼なじみのようなものだ。
だけど朱里とは、特に家が近かったせいか、本当の兄弟のように育った。
夏休みになるとお互いの家で宿題をし、川で遊んで、昼寝をして……お風呂だって一緒に入ったことがある。
だから、僕たちはあまりにも近すぎて……朱里は僕の気持ちになんか、気づきもしないのだろう。
「もうすぐ大会だね?」
朱里が大きな目をくりくりさせて、斜め下から僕のことをのぞきこむ。小柄な朱里と、背丈だけはひょろひょろと伸びている僕の身長差は、三十センチ近くあるだろうか。
「あたしはダメだけど、真尋はまた選手に選ばれるね?」
「ダメとかいうなよ。朱里、最近タイム伸びてるだろ?」
「ダメダメ、全然。あたしなんか」
「おれだって……今年はきっと無理だよ」
ふたりの間に、微妙な空気が流れる。土手の上を歩く僕たちの脇を、自転車に乗ったおじさんがのんびりと追い越していく。
そうなんだ。高二になって、僕は思うように泳げなくなった。タイムは伸びないし、今年は大会にも出られないかもしれない。
僕はもう――自分の中にあった大きな目標を、失ってしまったから。
「あ、あのさ」
話題をそらすように、朱里が明るい声で言った。
「真尋、最近、蒼太に会った?」
「……いや」
朱里の口から出た男の名前に、一瞬胸がざわつく。
「なんで?」
「うん……最近、蒼太、学校に来ないから」
「どうせ、さぼってるんだろ?」
蒼太も朱里と同じくらい、長い付き合いの幼なじみだ。朱里が僕と同じように、蒼太のことを大切に思っているのも知っている。
だけど……朱里が蒼太の名前を口にするたび、僕はなんともいえない複雑な気持ちになるんだ。
「でもね、家にも帰ってないみたいだし」
「蒼太んちに行ったのか?」
「だって、心配でしょ?」
「ほっとけよ。もう子供じゃないんだから」
朱里が黙り込む。僕は小さく息を吐く。
蒼太の家は昔から、悪い意味で目立っていた。
仕事もしないで昼間から飲み歩いている父親。そんな父親の目を盗んで、男を部屋に連れ込んでいる母親。
顔見知りだらけの狭苦しいこの町では、まだ子供だった僕の耳にさえ、下品な噂話は聞こえてきた。
そして居場所のなくなった蒼太は、よく家を逃げ出して、僕の部屋に泊まっていた。
だけど最近は昔ほどしゃべらなくなって……そういえば学校でも近所でも、あいつの姿を見かけない。
「それじゃ……」
朱里が立ち止って小声で言う。僕たちはいつもの分かれ道まで来ていた。
「また明日ね、真尋」
「……ああ」
小さく手を振って、朱里は僕に背中を向ける。僕は黙ってその姿を見送る。
真っ白なブラウスも、短めのスカートも、濡れた髪も、華奢な体も……何もかもが愛しい。
「あ、朱里!」
僕の声に振り向く朱里。頬がほんのり、夕焼け色に染まっている。
「あとで蒼太の家に寄ってみる。ちゃんと学校来いって言っておくから」
朱里が静かに微笑んで、こくんとうなずく。そしてまた背中を向けて去って行く。
僕は朱里のことが好きだった。
いつからかわからないけど、ずっとずっと前から――僕は朱里のことが好きだった。