小説 海田たすく*新三郎カス人生──堕落編①
プロローグ
私、海田たすくは離婚した。
やーーーっと、解放された。
浪費家の嫁。
生意気な息子。
話の通じない娘。
ようやく、全員とおさらばできたのだ。
離婚したくないと最後まで譲らなかった嫁には、
私の全財産をすべて譲った。
それが、離婚の最低条件だった──。
わはは。
そんなもの、くれてやる。
家も、有価証券も、本当にすべてだ。
世間一般では大事だと言われる“子ども”も、
親権はすべて嫁に渡した。
さらに、養育の一切からも手を引いた。
これには、さらに金を積んだ。
私の持っていた会社と引き換えに──。
こうして私は、
晴れて、完全完璧に、自由の身となった。
もう、朝から糞忙しく働かなくていい。
もう、嫁のキーキーうるさい声を聞かなくていい。
もう、わがままな子どもたちの顔を見なくてすむ。
私は、やっと自由になれたのだ。
私の第二の人生は、今日から始まる。
「先ずは、今までできなかったことをやってみたかった」
私をここまで突き動かしたのは、
真田山新三郎著
『新三郎カス人生──堕落編』
という一冊の本だった。
私は天才で、容姿もよく、家柄もよく、
何ひとつ不自由なく育ってきた。
自分の人生を、疑ったことなどなかった。
だが、この本を読んだ瞬間、
私は膝から崩れ落ちた。
自分とは正反対の人生。
自堕落で、無様で、どうしようもない生き方。
それなのに、
なぜか私は、その生き方に
異常なほどの憧れを抱いてしまった。
そしてそれが、
私自身のすべてが嫌になってしまう、
決定的な起因となった。
その一、朝からパチンカス
「朝イチからパチンコの抽選に並び、
パチンカスという堕落を楽しめ」
それが、『新三郎カス人生──堕落編』
その一に書かれていた一文だった。
そして私は今、
その“堕落編・その一”を実践するため、
朝からパチンコ屋の前に並んでいる。
正直に言えば、
こういう場所に来るのは初めてだった。
仕組みも、作法も、よく分かっていない。
前夜に動画をいくつか見ただけだ。
「抽選」という言葉の意味も、
そこで初めて知った程度である。
それでも列に並びながら、
私は、こんなことを考えてしまっていた。
──なぜ、ここにいる人間は、
このエネルギーを他のことに使わないのだろうか。
そして同時に、
そんなことを考えている自分こそが、
まだ完全に会社脳を捨てきれていない
海田たすくなのだと、思い知らされる。
「お、新顔だね」
声をかけられ、顔を上げる。
黒いキャップに、上下ジャージ。
年齢の見当がつかない男だった。
だが話し方は丁寧で、表情は柔らかい。
「今日導入の新台狙い?
やめた方がいいよ。最近のLT機は荒い。
399なんて、ぶっこ抜き前提だしね」
最低限の知識しかない私でも、
言わんとしていることは、何となく理解できた。
男はそれだけ言うと、
仲間のいる方へ戻っていった。
──なるほど。
ここは、そういう世界なのか。
だが、もう少しだけ知識が欲しくなり、
私はスマホを開いた。
そのときだった。
「……社長」
小さな声が聞こえた。
「社長ですよね」
顔を上げると、
見覚えのない男が、にこりと笑っていた。
「やっぱり社長だ。
数年前に定年しました。前川保と申します」
世間は狭い、と言う。
だが、まさかこんな場所で、
過去の世界の人間と出会うとは思ってもいなかった。
前川は、
私が会社を去ったことを知っていた。
退職者ネットワークでは、その話で持ちきりらしい。
そして彼は、
今日の“狙い目”を、さりげなく教えてくれた。
「さっき話しかけてきた男、いましたよね。
あれは“新人かまし”です。
この店の常連ですよ」
先ほどの男の話は、すべて嘘だという。
「本命は、399のLT機です」
そう言い残し、
前川は人混みの中へ消えていった。
助言は、ありがたかった。
だが、不思議なことに、
私は前川という男に、ほとんど心当たりがなかった。
従業員数、数万人。
私の顔を知っている人間は、想像以上に多い。
それは不便でもあり、
こうして、時には助けにもなる。
──さあ。
パチンコ屋の抽選が、始まる。




