十五日目
●講和会議 十五日目
船が、港をゆっくりと離れていく。
甲板から眺めるヴァレンシア港湾都市は、陸の上にいたときよりもずっと狭く、小さく見えた。
マリエルは車椅子に座り、海風に揺れる髪を押さえながら、そっと隣にいるルドウィクを見上げた。
ほんの少し、いつもよりも肩の力が抜けたような横顔。
いつも、たくさん寄っている皺の消えた眉間。
大きくて重たいものを、たった一人で背負っていた『責務』から解き放たれて、やっと『帝国宰相』から『ルドウィク』に戻ってきた、その表情。
共和国ですべき仕事をすべて終え、今はただ帝国への帰途についている。
それが、まるで夢のようで、マリエルは少し目を細めた。
「寒くはないか」
ふと、ルドウィクがこっちを向いた。
その灰緑色の瞳が、柔らかく見つめてくる。
その視線だけで、心配してくれているのが伝わる。
それだけで、胸の中がボワッと暖かくなっていく。
マリエルは、そっと微笑んだ。
「閣下こそ、薄着ではありませんか」
そう言うと、ルドウィクは少し困ったように目をそらした。
「……上着は、固くてな。まだ背中が痛い」
その一言に、今度は心臓がきゅっと小さくなる。
肩の怪我が、まだ痛むのだろうか。
不安が表情に出てしまっていたのだろうか。ルドウィクは慌てたように付け加える。
「いや、動かさなければどうということはない。
……むしろ、マリエルこそ痛みは大丈夫なのか?」
「問題ありません」
反射的に、マリエルはそう返していた。
……実は、まだ肩も背中もまともには動かせない。
痛み止めが効いているうちは忘れていられるけれど、切れたときには、思わずうめいてしまう程度には痛い。
でも。
無駄に心配をかけたくはない。
それでも、痛みを抱え込むことだけは、しない。
痛みがつらいときは、ちゃんと『痛い』って言ってもいいんだ、と。
きっと閣下は、ちゃんと受け止めてくれると、わかっているから。
陸地が、だんだんと遠ざかっていく。
周囲が水面だけになっていき、遠くの山がかすんでいく。
海鳥たちが、水面すれすれの風を切って飛んでいるのが見えた。
あれは、どこまでいくのだろうか。
そんな、他愛もないことを考えながら海を眺めていたときだった。
「そ、その」
ルドウィクが言いにくそうに、おずおずと口を開いた。
「なんでしょう」
ルドウィクに目を向けると、珍しく落ち着きなく、視線をさまよわせている。
「いや、その……」
妙に、言葉を濁す。
いつも冷静沈着な閣下が、言葉を探している。
心臓が、トクン、と鳴った。
ルドウィクは、覚悟を決めたように、息をふーっ、と吐いた。
「最初は、罪滅ぼしのつもりだった」
マリエルは、黙ってルドウィクを見つめる。
「アルターを救えなかった代わり────。そう、思っていた」
それは、わかっていた。
少し、胸がうずく。
それ以外に、自分が拾ってもらえる理由がなかったから。
「……でも。
気がついたら、いつも目で追ってしまっていた」
そして、ルドウィクはマリエルの目を、じっと見つめた。
この人は。
いつから見てくれていたのだろう。
この人の胸の中に、私がちゃんといたんだ。
大勢の中の一人じゃなくて、私として。
胸の奥から暖かいものがあふれ出してくる。
「いつも淹れてくれる紅茶が好きだった。
ずっと仕事を見守ってくれるのが心強かった。
気づいたら、そばに居てくれるのが当たり前になっていた。
そして……これからもずっと居て欲しい、と思ったんだ」
真剣なまなざし。
熱を帯びたような視線。
鼓動が、勝手に早くなる。
────自然と、口が動いていた。
「はい。私もずっと────」
「だから、私の妻に────」
二人の言葉が、かぶった。
同時に、言葉が止まる。
次の瞬間、お互いの顔が真っ赤に染まった。
ルドウィクの顔が耳まで紅潮している。
そんな表情、今まで一度も見たことがない。
(────かわいい、などと)
思ってしまうのは、不敬だろうか。
「あ、いや、その……だな、ええと……」
いつもの理路整然とした話し方が、まるでどこかに消えてしまったような。
恥ずかしそうに言葉を濁すルドウィクを見ていると、くすぐったくて、嬉しくて、思わず笑ってしまう。
この人は。
どこまでも、温かくて、優しくて。
誰よりもまっすぐで、少しだけ不器用で。
(だから、ずっと支えてあげたい)
その立場も、役職も、家柄も。
すべてわかったうえで、その隣にいたい、と思う。
「よろしくお願いします」
マリエルは、そう言って頭を下げた。
ルドウィクは、完全に混乱した表情で目をしばたたかせた。
「えっ?あっ、いや……え?今のは、どっちの……」
今の言葉が、さっき言いかけた自分の言葉の続きなのか。
それとも、ルドウィクの言葉への返事なのか。
逡巡しているその姿でさえ、たまらなく愛おしくて。
この、甘くて、どこか息が詰まりそうで、そして切なくて優しい時間がもったいなくて。
海風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。
波の音が、いつまでも優しく聞こえてくる。
マリエルはいたずらっぽく微笑んだ。
「その答えは────」
これから、帝都に一緒に帰るのだ。
……だから。
(────もう少し、あとで)
※※※
これにて完結です。
最後までお読みいただきありがとうございました。




