十四日目-1-
●講和会議 十四日目
ルドウィクはあくびを噛み殺しながら、届いた電信に目を通していた。
文面が一瞬だけぼやける。
慌てて瞬きをして、意識を現実に引き戻す。
昨夜、あのあと。
結局ルドウィクは、マリエルが寝入ってしまったあとも、ずっと病室にいた。
安心しきった顔で、規則正しく上下する胸。
……今こうして息をしている。それが、奇跡みたいで。
マリエルが生きている、ということを実感して、胸の奥がじわっと温かくなる。
眠ってしまったマリエルの手は、指を絡めたままだった。
────いや、離したくなかったのは、自分か。
ルドウィクは、軽く笑った。
この手の中の温もりを、ずっと離したくなくて。
そうしているうちに、気づくと日が昇ってしまっていた。
慌ててホテルに戻り、簡単な朝食を済ませる。
続いて、帰りの船の手配を指示したあと、残っていた書類仕事を片付けた。
朝のうちに議会から届いた電信には、講和条件を確認したことが簡潔に記されていた。
国家として、最大の危機を回避できたというのに、議会の連中はそれをわかっているのか、いないのか。
この後は帝国に戻り、議会からの責任追及と講和撤回論を潰しながら、条約の履行を進めていくだけだ。
ある意味、ここからが本番だ。
ふと顔を上げたルドウィクは、裁縫係を呼び出した。
「すまないが、これを付けなおしてくれるか?」
上着を脱いで、帝国宰相の紋章と一緒に渡す。
「只今」
裁縫係はその場で針と糸を取り出し、慣れた手つきで紋章を元通りに縫い付けていく。
ルドウィクは、それを黙って見つめていた。
一度は、投げ捨てた紋章。
守れなかった後悔。
それでも、前を向いて進んでいくことを決めた。
そして、守れた命と、手放さなかった覚悟。
この紋章を再び身に着けるのは、覚悟の証でもあった。
「終わりました」
上着を受け取り、それを羽織る。
裁縫係は一礼して、持ち場に戻っていった。
(これで────)
共和国での仕事は、終わった。
宰相としての仕事の続きは、帝国に戻ってからだ。
最後の仕事を片付けたあと、ルドウィクは再び病院へ向かった。
────マリエルは、もう起きているだろうか。
午後からの仕事の前に、せめて顔だけでも見ていきたい。
(……というのは、甘えだろうか)
自分で自分に言い訳しながら、心のどこかではわかっていた。
これは、私情だ。公務ではない。
……朝のうちに、やらなければならないことは、すべて終わらせてある。
(……だから、これは、休憩時間だ)
そう言い訳を追加する。
少なくとも、今だけは。
────宰相としてではなく、マリエルの『大切な人』として、そばに居てあげたい。
病室へ入ると、マリエルがベッドの上でゆっくりと起き上がっていた。
「起き上がっても大丈夫なのか?」
慌てて、ルドウィクが声をかける。
「痛み止めを頂きましたので」
ふらつく上半身で、微笑むマリエル。ルドウィクはとっさに駆け寄っていた。
「そういうことじゃない!」
マリエルの体を支えながら、つい、大きな声を出す。
背中にまた鈍い痛みが走る。が、ルドウィクはそれを無視した。
マリエルの顔色は、まだあまりいいようには見えない。唇だって少し青く見える。
寝間着から見える包帯が痛々しいほどだ。
しかし、マリエルはほほ笑みながら言った。
「講和が成ったのでしたら、閣下は帰国なさるのですよね?」
「……まあ、そうなる」
本当なら、自分もマリエルも傷が癒えるまでゆっくりしていたかった。
しかし、今の帝国議会は、少しでも気を抜けば講和をひっくり返そうとする勢力が暴れだし、下手をすると足元をすくわれてしまうかもしれない。
それ以外にも、国に戻ってやらなければならないことが山積みだ。
「でしたら、私もご一緒いたします」
マリエルはまっすぐルドウィクの顔を見ながら、はっきり言った。
その瞳には、迷いがなかった。
「しかし────」
「いいえ」
なおも止めようとするルドウィクの言葉を遮って、マリエルは首を横に振る。
そして、柔らかな笑みと、対照的なほど、強い言葉。
「おそばに、居させてください」
はっきりとした意思をもった、強い口調。
(この娘は────)
こんなに、自分の想いをまっすぐに言葉にする性格だったろうか。
こんなにはっきりと、自分の意志を口にする子だったろうか。
(強く、なった)
そのまっすぐな表情に。
まっすぐな瞳に。
────これは、言っても聞かないな。
ルドウィクは苦笑した。
ため息をついて、ルドウィクは言った。
「わかった。だが、病院に頼んで車椅子を貰ってからだ」
「はい閣下」
すぐにマリエルは答えて、にっこりと笑った。
自分でも、甘いと思う。
それでもこの笑顔が守れるのなら。
かまわないじゃないか、とルドウィクは思った。
病院から車椅子を貰い、慎重にマリエルを乗せる。
腰に手を回し、そっと支えながら座らせる。
ゆっくりと腰を下ろすマリエルの体温が、手のひら越しに伝わってくる。
ルドウィクは車椅子を押しながら、ゆっくりとホテルへの坂を上っていく。
石畳のわずかな起伏を超えるたびに、車輪がきしむ音を立てた。
「申し訳ありません、閣下に押していただくなど」
少し申し訳なさそうに、マリエルが振り向きながら言う。
その視線はかすかに不安そうで、でも同時に少しくすぐったさもあるように見える。
しかし、ルドウィクは車椅子から手を離さなかった。
「これくらいはさせてくれ。……ついてくる、と言ったんだから、文句は言わせないぞ」
軽く冗談めいて、そう口にする。
車椅子から感じる、彼女の重さ。
命の重み。
今だけは、この感覚を、重さを、独り占めしていたい。誰にも触れさせたくない、と思ってしまう。
それが自分でも可笑しくて、ルドウィクは小さく笑った。
「……はい」
マリエルは短くそう答えて、そっと柔らかく微笑んだ。
まるでルドウィクの内心に気づいているかのような、優しい声。
振り返らなくとも、その笑顔は想像できる。
この港湾都市も、これでお別れだ。
潮風が頬をなでる。少し冷たい風が吹くたび、マリエルの長い髪がふわっと風にゆれた。
ちらりと見える、細い首もと。小さな肩。
ルドウィクは、ちらっと胸の帝国宰相の紋章に目を落とす。
自分が、守れたもの。国家の威信と、小さな命。
これは、ちゃんと誇れるものじゃないか。
遠くで、汽笛の音。
市場の喧噪、馬車や荷車の走る音、重たい重機の立てる金属の音。
それも、今日までだ。
────明日には、帝国へ向かう客船が到着する。




