表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

50/52

十四日目-1-

●講和会議 十四日目

 ルドウィクはあくびを噛み殺しながら、届いた電信に目を通していた。

 文面が一瞬だけぼやける。

 慌てて瞬きをして、意識を現実に引き戻す。




 昨夜、あのあと。

 結局ルドウィクは、マリエルが寝入ってしまったあとも、ずっと病室にいた。

 安心しきった顔で、規則正しく上下する胸。

 ……今こうして息をしている。それが、奇跡みたいで。

 マリエルが生きている、ということを実感して、胸の奥がじわっと温かくなる。

 眠ってしまったマリエルの手は、指を絡めたままだった。

 ────いや、離したくなかったのは、自分か。

 ルドウィクは、軽く笑った。

 この手の中の温もりを、ずっと離したくなくて。


 そうしているうちに、気づくと日が昇ってしまっていた。




 慌ててホテルに戻り、簡単な朝食を済ませる。

 続いて、帰りの船の手配を指示したあと、残っていた書類仕事を片付けた。


 朝のうちに議会から届いた電信には、講和条件を確認したことが簡潔に記されていた。

 国家として、最大の危機を回避できたというのに、議会の連中はそれをわかっているのか、いないのか。

 この後は帝国に戻り、議会からの責任追及と講和撤回論を潰しながら、条約の履行を進めていくだけだ。

 ある意味、ここからが本番だ。


 ふと顔を上げたルドウィクは、裁縫係を呼び出した。

「すまないが、これを付けなおしてくれるか?」

 上着を脱いで、帝国宰相の紋章と一緒に渡す。

「只今」

 裁縫係はその場で針と糸を取り出し、慣れた手つきで紋章を元通りに縫い付けていく。


 ルドウィクは、それを黙って見つめていた。

 一度は、投げ捨てた紋章。


 守れなかった後悔。

 それでも、前を向いて進んでいくことを決めた。

 そして、守れた命と、手放さなかった覚悟。

 この紋章を再び身に着けるのは、覚悟の証でもあった。


「終わりました」

 上着を受け取り、それを羽織る。

 裁縫係は一礼して、持ち場に戻っていった。


(これで────)

 共和国での仕事は、終わった。

 宰相としての仕事の続きは、帝国に戻ってからだ。


 最後の仕事を片付けたあと、ルドウィクは再び病院へ向かった。

 ────マリエルは、もう起きているだろうか。

 午後からの仕事の前に、せめて顔だけでも見ていきたい。

(……というのは、甘えだろうか)

 自分で自分に言い訳しながら、心のどこかではわかっていた。

 これは、私情だ。公務ではない。

 ……朝のうちに、やらなければならないことは、すべて終わらせてある。

(……だから、これは、休憩時間だ)

 そう言い訳を追加する。

 少なくとも、今だけは。

 ────宰相としてではなく、マリエルの『大切な人』として、そばに居てあげたい。




 病室へ入ると、マリエルがベッドの上でゆっくりと起き上がっていた。

「起き上がっても大丈夫なのか?」

 慌てて、ルドウィクが声をかける。

「痛み止めを頂きましたので」

 ふらつく上半身で、微笑むマリエル。ルドウィクはとっさに駆け寄っていた。

「そういうことじゃない!」

 マリエルの体を支えながら、つい、大きな声を出す。

 背中にまた鈍い痛みが走る。が、ルドウィクはそれを無視した。

 マリエルの顔色は、まだあまりいいようには見えない。唇だって少し青く見える。

 寝間着から見える包帯が痛々しいほどだ。


 しかし、マリエルはほほ笑みながら言った。

「講和が成ったのでしたら、閣下は帰国なさるのですよね?」

「……まあ、そうなる」

 本当なら、自分もマリエルも傷が癒えるまでゆっくりしていたかった。

 しかし、今の帝国議会は、少しでも気を抜けば講和をひっくり返そうとする勢力が暴れだし、下手をすると足元をすくわれてしまうかもしれない。

 それ以外にも、国に戻ってやらなければならないことが山積みだ。


「でしたら、私もご一緒いたします」

 マリエルはまっすぐルドウィクの顔を見ながら、はっきり言った。

 その瞳には、迷いがなかった。

「しかし────」

「いいえ」

 なおも止めようとするルドウィクの言葉を遮って、マリエルは首を横に振る。

 そして、柔らかな笑みと、対照的なほど、強い言葉。

「おそばに、居させてください」

 はっきりとした意思をもった、強い口調。

(この娘は────)

 こんなに、自分の想いをまっすぐに言葉にする性格だったろうか。

 こんなにはっきりと、自分の意志を口にする子だったろうか。

(強く、なった)

 そのまっすぐな表情に。

 まっすぐな瞳に。

 ────これは、言っても聞かないな。

 ルドウィクは苦笑した。


 ため息をついて、ルドウィクは言った。

「わかった。だが、病院に頼んで車椅子を貰ってからだ」

「はい閣下」

 すぐにマリエルは答えて、にっこりと笑った。


 自分でも、甘いと思う。

 それでもこの笑顔が守れるのなら。

 かまわないじゃないか、とルドウィクは思った。




 病院から車椅子を貰い、慎重にマリエルを乗せる。

 腰に手を回し、そっと支えながら座らせる。

 ゆっくりと腰を下ろすマリエルの体温が、手のひら越しに伝わってくる。


 ルドウィクは車椅子を押しながら、ゆっくりとホテルへの坂を上っていく。

 石畳のわずかな起伏を超えるたびに、車輪がきしむ音を立てた。

「申し訳ありません、閣下に押していただくなど」

 少し申し訳なさそうに、マリエルが振り向きながら言う。

 その視線はかすかに不安そうで、でも同時に少しくすぐったさもあるように見える。

 しかし、ルドウィクは車椅子から手を離さなかった。

「これくらいはさせてくれ。……ついてくる、と言ったんだから、文句は言わせないぞ」

 軽く冗談めいて、そう口にする。


 車椅子から感じる、彼女の重さ。

 命の重み。

 今だけは、この感覚を、重さを、独り占めしていたい。誰にも触れさせたくない、と思ってしまう。

 それが自分でも可笑しくて、ルドウィクは小さく笑った。

「……はい」

 マリエルは短くそう答えて、そっと柔らかく微笑んだ。

 まるでルドウィクの内心に気づいているかのような、優しい声。

 振り返らなくとも、その笑顔は想像できる。




 この港湾都市も、これでお別れだ。


 潮風が頬をなでる。少し冷たい風が吹くたび、マリエルの長い髪がふわっと風にゆれた。

 ちらりと見える、細い首もと。小さな肩。

 ルドウィクは、ちらっと胸の帝国宰相の紋章に目を落とす。

 自分が、守れたもの。国家の威信と、小さな命。

 これは、ちゃんと誇れるものじゃないか。


 遠くで、汽笛の音。

 市場の喧噪、馬車や荷車の走る音、重たい重機の立てる金属の音。

 それも、今日までだ。

 ────明日には、帝国へ向かう客船が到着する。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ