十三日目-4-
どこか現実感のない、ふわりとした感覚。
まるで水の中を漂っているような、夢の中にいるような、そんな感覚。
視界がぼやけて、輪郭がなかなか定まらない。
左側で、誰かが呼んでいることに気づいた。
マリエルは、顔を横に向けた。
そこに────。
ルドウィクが、自分の左手を包むように握っているのが見えた。
(隣に居てくれた────)
胸の中が、暖かくなっていく。
ぼんやりとした世界の中で、この手の温度だけが確かなものに感じられた。
どうにか口を動かし、乾いた唇から言葉を押しだす。
声はガサガサで、喉がひりひりと痛い。
「閣下、ご無事で────」
「マリエル!」
言い終える前に、ルドウィクは叫んだ。
切羽詰まったような、必死な声。
そしてマリエルの手を持ったままの左手を、自らの額に押し当てた。
「よかった……目を覚ましてくれて、よかった」
額に当てられた指先に、ぽつりと雫が落ちるのを感じる。
(泣いて、くださっている────)
それに気づいたとき、喉の奥がきゅっと締め付けられた。
この人は、泣いてくれている。
自分のために。自分が目を覚ましたことを、こんなにも喜んでくれている。
胸の奥が、甘く疼いた。
痛みでも、苦しみでもなく。
……ただ、甘く苦しい、幸せな疼き。
その涙が、愛おしくて。
その涙を分け合いたくて。
マリエルは、そっと右手を伸ばそうとした。────瞬間。
「……っ」
背中とわき腹に、切り裂かれるような激痛が走った。
視界が一瞬真っ白になる。呼吸すらも苦しい。
「マリエル!」
「っ……だ、いじょ────」
声すら出せず、ただ呻くだけ。
ルドウィクは慌てて、ベッドに身を乗りだした。
「まだ無理だ。じっとしていろ」
背中からゆっくりと力を抜くと、徐々に痛みが引いていった。
どうにか、声を出す。
「……っ、申し訳ありません」
ふっ、と息を吐くと、ようやくルドウィクはホッとした顔をした。
あの時。
拳銃に気付いたマリエルは、反射的に立ち上がっていた。
考える時間など、なかった。
繋いだままの右手とルドウィクの左手を軸にするように、窓とルドウィクの間に、自分の身体を滑り込ませた。
同時に、ルドウィクの手を自分の方へ引き寄せ、力いっぱい車内の床に引き倒す。
一発目は、間に合わなかった。弾丸は、ルドウィクの肩に。
そのまま、ルドウィクに覆いかぶさった。
二発目は、自分の背中に当たった。三発目はわき腹に。激しい衝撃と、焼けつくような痛み。
激痛の中、微かに目を開けた。
ルドウィクがなにかを叫んでいたことだけを、覚えている。
「肩甲骨にひびが入っている。脇のあばらも折れている。
まだ動くのはしんどいはずだ」
ルドウィクは心配そうな表情で、そう告げた。
言いながらも、その手は一度も離さない。
その温かさが、とても優しくて。
しっかりと握るその力強さが、とても心強くて。
────あのとき、差し伸べてくれた手だ。
マリエルはそっと手を握り返した。
「本当に……ご無事で良かっ────」
「良くない!」
言い終える前に、ルドウィクが叫んだ。
「マリエルが無事じゃなかった!ちっとも良くないだろう!」
思わずビクッとする。
ルドウィクがこんなにも感情をあらわにするのは、珍しい。
────叱られている。
でも、これは怒りや失望からではない。
……胸の奥が、ふわっと温かくなる。
「ですが────」
「頼むから」
なおも口を開いたマリエルの言葉を、ルドウィクは再度遮る。
そして、ルドウィクは指先にぐっと力を込めた。
……少し痛いくらいに、強く。
「頼むから、もうこんなことはしないでくれ」
泣きそうなまなざしに、胸を貫かれる。
その瞳の中にある、不安。恐怖。
(この人は、こんなにも────)
私を失うことを怖がっている。怖がってくれる。
私が傷つくことを悲しんでいる。悲しんでくれる。
(ご心配を────おかけしてしまった)
そのことが、嬉しくて、愛おしくて。
マリエルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(それでも────)
「いいえ」
「えっ」
ルドウィクは眉をしかめる。
戸惑うような困惑した表情。
マリエルは続ける。
「いいえ。閣下が危ないときは、私の命に代えても御守りします」
「まだそんなことを────」
「違うのです」
マリエルは、ゆっくり首を横に振った。
捨てられるとか、役に立たなきゃとか。
自分には価値がないとか、頂いた恩をお返ししなければとか。
────もう、そういうことじゃない。
そして、はっきりと言った。
「閣下が私を大切だとおっしゃってくださったように……。
そして、いつも私を守ってくださるように、私も、私の大切な方をお守りしたいのです」
そして、ルドウィクの目を見つめながら、そっと微笑んだ。
ルドウィクは言いかけた言葉を飲み込んだ。
そして、紡ぐ言葉を探すように、口を開きかけては閉じ、また開いては閉じた。
ふと、視線が重なる。
重ねた手のひらが、ゆっくりと熱を持っていく。
呼吸が止まりそうになるくらい、胸が苦しくなっていく。
そして、ルドウィクはふっと息を吐くように笑った。
「────かなわないな、マリエルには」
少し恥ずかしそうに、ルドウィクは視線をそらした。
その、どこか照れたような表情が愛おしくて、また胸の奥が甘く疼く。
(私は────)
心の中で、マリエルはつぶやいた。
最初からずっと、この人にはかなわない。




