十三日目-3-
────夢を、見ていた。
宰相府の官僚として働く兄が、久しぶりに帰ってきた日。
「ただいま」
アルター兄の声を聴くだけで、いつも胸が躍った。
兄のお土産はいつだって、うちには似合わないくらい豪華で、見たこともないような物ばかりだったからだ。
綺麗な白い紙箱。鮮やかな色のリボン。
ふたを開けると甘い香りがふわっと広がる砂糖菓子。
読めない文字が書いてある外国の絵本。なにに使うのかすらわからない、奇妙な模様の装飾品。
一つ手に取るたびに、心が外の世界に向かって広がっていった。
────でも、それはどこか遠くにある別の世界。
その頃は、そう思っていた。
兄は、いつもお土産を前に、楽しそうに話をしてくれた。
今暮らしている小さな町の外に、どれほど広い世界があるのか。
どんな土地があって、どんな国があって、そこでどんな人々が暮らしているのか。
まだ見ぬ遠い国の話を聞くたびに、まるでそこに居るかのような気がするほど、兄の話は生き生きとしていて、輝いていた。
「宰相閣下は、とても立派な人だ」
ことあるごとに、アルター兄は口にした。
この国を、皇帝陛下をお支えする、立派な仕事をしておられるのだと。
宰相府での仕事がどれだけ大変か、どれほど大切か。
宰相閣下がどれほど真面目で、公平で、尊敬できる人か。
幼い自分には、宰相閣下も皇帝陛下も遠い存在で、顔も姿も想像できない。
それでも、そんな偉い人にお仕えしている兄が、とても誇らしく思えた。
「酒が無くなった」
そう父に言われた。
お小遣いをもらい、市場の酒屋までお使いに出掛けることになった。
市場は、大通りを渡って、城門の内側にある。
父も兄もお酒をよく飲むので、お使いはいつの間にか自分の仕事になっていた。
母に見送られたあと、一人で通りを歩いていく。
兄の話をもっと聞きたい。
外国のお話も、宰相閣下のお話も。
うきうきと軽い足取りで、小走りに城門をくぐる。
いつもの酒屋についたときだった。
急に、表が騒がしくなった。
耳をつんざくような怒鳴り声。誰かを呼びながら泣き叫ぶ声。
驚いて振り向くと、店の外を逃げ惑う人々が、足音を立てて駆け抜けていく。
大勢の武装した兵士たちが走って行ったかと思うと、城門が閉じられるのが見えた。
重たい鉄のきしむ音と共に、それ以外のすべての音が急に遠ざかっていった。
帰れない、という不安で、足が震えて、胸が苦しくなった。
なぜかわからないけれど、もう、二度と両親や兄には会えないという、確信めいた予感だけが残った。
悲しみで胸がいっぱいになり、声を上げようとしたところで、気づいた。
────これは、あの日の夢だ。
知らない大人に「もう父も母も兄も戻っては来ない」と聞かされて、ただ一人で取り残されてしまったと知った、恐怖。
どれだけ泣き叫んでも、もう誰も応えてくれない、助けに来てくれない、絶望。
世界のすべてが真っ暗になり、まるでなにも見えない、聞こえないような感覚。
とても寂しくて、悲しくて。
ずっと、記憶の底にしまったままになっていた、あの日の記憶。
『ていこくぐん』がやって来たのは、その次の日だった。
ケガ人を救助し、簡素な小屋を建て、食べ物と寝る場所を与えてくれた。
そして。
「君を探していた」
優しく手を差し伸べてくれた青年は、どこか安堵したような顔でそう言った。
暖かくて、大きな手。優しい声。
アルター兄の親友だと名乗ったその人は、どこか遠い世界のとても高いところにいると思っていた、宰相閣下だった。
それは、自分にとって唯一の光。
なにもかも無くして、なんの価値もない人間を。
……暗闇の底に零れ落ちていきそうな自分を、手を伸ばして掬い上げてくれた灯火。
────天上の、ずっとずっと高いところから照らしてくれる光。
閣下は、学舎に入れてくれた。
暗闇に戻ってしまうのが怖くて、必死で勉強した。
閣下は、侍女の仕事を与えてくれた。
照らしてくれなくなるのが怖くて、ただひたすらに尽くした。
光が届く範囲だけが自分の世界で、居られる場所だった。
いつしか、思うようになっていた。
自分は、照らしてもらえるような価値はあるのだろうかと。
それは、恐怖だった。
すべてを捧げつくして尽くさなければ。身体も、生命も、時間も、なにもかも、すべて。
そうしなければ、自分の居場所はどこにもなくなる。
……いつか自分を照らしてくれるこの光は消えてしまう、と。
でも。
自分は失敗した。
閣下に、嘘をついてまで手に入れようとした情報。
すべてを捧げるはずだったのに、それすら叶わなかった。
それどころか、閣下は自分のために膝をついて頭を下げた。
────下げさせてしまった。
自分のせいで、光が消えてしまう。もう、照らしてもらえない。
その絶望の中で。
その光は────閣下は、言ってくれた。
『君は、私にとって大切なんだ』と。
『価値がないなどと言わないでくれ』と。
なにもかも無くして、なんの価値もないはずの自分に、与えてくれた価値。
『閣下の大切なもの』という価値。
そして、閣下は言ってくださった。
『君でなければ困る。
……君に、居て欲しいんだ』と。
必死に縋って、尽くして、すべてを捧げなければ無くなると恐れていた、自分の居場所。
閣下の隣にできた、居場所。
(だから、私は────)
あの人を、守りたいと思った。
怖れからではなく、恩義でもなく。
ただ、愛しい人を守りたくて。
────マリエルは、そっと目を開けた。




