十三日目-2-
共和国の用意した講和条約の条文を、一字一句、確かめていく。
誤記はないか。意図しない解釈の余地はないか。
ルドウィクは、慣れない左手で何度も文章をなぞる。
最後まで確認し終えたあと、ルドウィクはペンを手に取った。
腕を少し動かすだけで肩に激痛が走る。だが、机の上に手を置いてしまえばなんとか文字は書ける。
文字は震えていないか。乱れてはいないだろうか。
全力で意識を集中させながら、ルドウィクは使い慣れた自分のサインを文書に刻んでいく。
ルドウィクが署名を終えた後、ロハン首相も同じように署名を入れた。
二通の講和条約文書が交換され、二人は立ち上がった。
お互いに左手で、握手を交わす。
ロハン首相の力強い手の感触に、ようやく『講和が成った』ことを、ルドウィクは実感した。
二人はその手を、双方の官吏、書記官たちに見えるように高く掲げた。
会場内が拍手に包まれる。
握手をしたまま、首相は小声で言った。
「"アンタの覚悟、見せてもらったよ"」
ルドウィクは少し驚き、そして────無言のまま、ゆっくりと微笑んだ。
※※※
ホテルへ戻ってきたあと。
ホテルのエントランスを通った瞬間に、ルドウィクは膝から崩れ落ちそうになるほどの疲労を感じた。
肩も背中も重い。痛みすら、痺れでよくわからない。
仕事をやり終えた、という達成感は、どこにもなかった。
山場は、ひとつ超えたのかもしれない。
しかし、まだ下りの行程が残っている。
この数日間のゴタゴタで、本来やらなければならない執務が溜まってしまっている。
処理しなければならない書類。確認しなければならない事項。関連省庁からの問い合わせ。照会。そしてさまざまな雑務。
そしてなによりも、この講和会議の結果を、帝国議会へ電信で送らなければならない。
執務室の扉を開けたとき、床で鈍く光るものが目に入った。
投げ捨てたまま忘れていた『帝国宰相の紋章』だった。
ルドウィクは一瞬立ち止まった。
そしてゆっくりと屈みこんでそれを拾いあげ、上着の胸ポケットへ滑り込ませた。
(────今は、これでいい)
あとで、裁縫係に付けなおしてもらえばいい。
だが、これを再び身に着けるのは、この仕事が最後まで終わってからだ。
ルドウィクは書記官を呼び、未処理の書類をまとめて持ってくるように伝えた。
敬礼して部屋を出ていく書記官を見送りながら、ふと気が付く。
……紅茶を、しばらく口にしていない。
普段なら、どんなに夜遅くまで仕事をしていても、マリエルがそっと紅茶を用意してくれていた。
控え目なノックの音。温かいカップ。少し甘い、優しい香り。
それを思い出した瞬間。
今この場にはいない、という事実が、心の中を冷やしていく。
(────いや)
ルドウィクは、小さく首を横に振った。
彼女は、必ず戻ってくる。
今はただ、それを信じて待つだけだ。
今は、自分がやれることを。やらなければならないことを。
窓の外を見る。
薄い雲に覆われた夜空。時計の針は、まだ宵の口を指している。
……まだ、夜は始まったばかりだ。
山積みになっていた書類が、次第に減っていく。
判を押し、署名をして、決裁印を入れていくたびに、机の上の山が一枚ずつ減っていく。
右腕が痺れてきても構わずに、ルドウィクはひたすらにペンを動かし続けた。
まるで機械のように、同じような作業を黙々とこなしていく。
ときどき、官吏を呼び出して、書類のミスを訂正させる。
考える暇もなく手を動かし、ただひたすらに、仕事にだけ意識を集中させていく。
インク壺のインクが切れたことに気づいて、ふと顔を上げる。
時計を見ると、すでに日付が変わりそうな時刻だった。
大半の書類仕事は終わっていたが、面倒な手続きが必要な案件がいくつか残っている。
明日に回してもいいが────と思って、すぐに首を横に振る。
……今やれるうちに、やってしまおう。
大きく伸びをしようとして、再び背中に激痛が走る。
右肩から背筋にかけての、焼けるような痛み。
(何度目だ────)
そう思いながら、苦笑する。
わかっているはずなのに、つい動かしてしまう。
その時、控え目なノックの音がした。
「入れ」
自分の声が少しかすれてしまっていることに、ルドウィクは気づいた。
……あとで、なにか飲み物を持ってきてもらおう。
そう思っていると、扉を開けて官吏が一礼して入ってきた。
「宰相閣下。病院より報せがあり────マリエル嬢の意識が戻ったと……」
その瞬間、ルドウィクは肩の痛みすら忘れて、勢いよく立ち上がっていた。




