十一日目-1-
●講和会議 十一日目
朝食の席。
白いテーブルクロスの上には、温かいスープの香りと焼きたてのパンの匂いが漂っている。
いつもの、穏やかな朝食。
マリエルは、いつものように、ルドウィクの隣の席に腰を下ろした。
いつもと同じ距離。なのに、すぐ近くに閣下がいるというだけで、自然と胸の奥が暖かくなる。
向かいに座っていた若い書記官が、ちらっと二人の距離に視線を向ける。
ひそひそと囁き合う気配はあるのに、誰もあからさまには、なにも言ってこなかった。
窓からは朝日がキラキラと差し込んでくる。静かな食器の音。騒がしくもなく、微かな会話の声だけが聞こえてくる。
ルドウィクの体調も、よさそうだった。
顔色もいいし、目の下の影もほとんど消えている。なにより、きちんと食事をとっていることに、マリエルは胸の奥がふっとほどけるのを感じた。
(────こんな、穏やかな時間があるなんて)
あまりにも、ささやかで。
あまりにも、もったいなくて。
隣の席に座って、同じパンを食べて。口数も少なく会話をして、笑顔を交わす。
ただそれだけのことが、とてつもなく、嬉しかった。
朝食を終えて、執務室へ戻ったあと。
室内に入り、扉を閉めて、マリエルは意を決してルドウィクを呼び止めた。
「閣下」
振り向いたルドウィクは、穏やかな笑みを向けてくる。
そのまなざしだけで、柔らかな声だけで、心のこわばりが、ゆっくりと溶けていく。
「私も、お供させていただけませんか」
そう、口にしていた。
言ってしまった、と思いながら、マリエルは続ける。
「会議場の門まででかまいません。荷物持ちでも、なんでもいいのです。
────閣下と、一緒に……」
行きたい、までは言えずに、声がしぼんでしまった。
自分でも、身勝手な願いだと思う。
出入り禁止の身分だというのに、ずうずうしいことは、わかっている。
こんなことを口にしていい立場ではない。
(────断られて、当然だ)
そんな思いが、頭の中でうずまく。
しかし、ルドウィクはふっと目元をやわらげて、優しく微笑んだ。
「そう、だな」
少し考えるように、言葉を止める。
「ずっとホテルに籠っているのも飽きるだろう。
……途中までだが、一緒に行こう」
目の前が、ぱあっと明るくなる。
思わずはしゃぎたくなるほど、胸が軽くなる。
嬉しさにうずく胸を必死で押さえながら、マリエルは頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
外套を羽織って、廊下にマリエルが姿を見せたとき、ルドウィクはふとマリエルの髪に目を向けて、呼吸が止まった。
亜麻色の髪を留めている、小さな髪留め。
派手な装飾ではないが、朝の光を受けて小さな光を放っている。
それが自分が渡したものだと、わかったのだろうか。
ルドウィクが顔を赤くしたことに、マリエルは気づいた。
その視線に気づいて、マリエルもハッとした。
指先で髪留めを隠すようにそっと触れ、顔を伏せる。
耳まで、熱を持ってしまっている気がする。
ルドウィクはなにかを言いたげに口を開きかけるが、周囲には外交官や官吏たちが、蒸気自動車を待っている。
気恥ずかしさに、ルドウィクは口をつぐんで、目をそらした。
久しぶりに乗る蒸気自動車は、相変わらず振動が全身に響いてくる。
門の前で待機している大きな車体を見て、マリエルはわずかに背中がこわばった。
御者が扉を開け、ルドウィクが乗り込む。
続いてマリエルが乗り込み、前側の座席に腰を下ろそうとしたとき────。
「マリエル」
ルドウィクが、どこか遠慮がちに声をかける。
「よければ……その、隣に、座らないか?」
思わず、身体が止まる。
ルドウィクは、いつもの冷静な宰相の顔ではなく、どこか居心地悪そうに視線をそらした。
……気のせいか、その顔は紅潮しているようにも見えた。
(と、隣……?閣下の?)
その意味を理解した瞬間、今度はマリエルの顔が一気に熱くなった。
自然と鼓動が早くなる。
「……えっと、その」
妙に、喉が詰まってしまう。
消え入りそうな声で、マリエルは答えた。
「はい」
マリエルは、ルドウィクが開けてくれた座席に、腰を下ろした。
二人きりの、車内。
肩と肩が、触れそうな距離。
車体が揺れれば、全身が寄りかかってしまう。
衣服越しに伝わる体温。頬にかかる吐息。
蒸気自動車が動き出すと、鼓動まで一緒に振動しているような感覚。
窓の外を、港湾都市の風景が流れてゆく。
建物の間から見える海の景色。港の建物。
街道沿いには人が行きかい、朝の時間らしい忙しさを感じさせている。
蒸気自動車が珍しいのか、走って追いかけてくる人影もある。
そっと、ルドウィクの横顔を見る。
一瞬、目があった。ルドウィクが慌てて視線をそらしたのを見て、ルドウィクも自分を見ていたんだと気づいて、また顔が赤くなる。
「そ、その」
ルドウィクは、遠慮がちに口を開いた。
「に、似合って、いるぞ」
その瞬間、マリエルの顔がパッと熱くなった。
ルドウィクも、慌てて顔をそらす。
無言。
しかし、ルドウィクの左手が、そっとマリエルの右手に重ねられた。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
そして、マリエルはおずおずと、その手を握り返した。
ルドウィクは横を向いたまま。その横顔は、微かに紅潮しているようにも見えた。
それを見て、マリエルの心の中がじんわりと暖かくなっていく。
(────こんな、時間が)
もう少し、続けばいいのに。
そんな、身の程知らずな願いが、胸の奥で膨らんでいく。
ふと、窓の外が、少し明るくなった。
ちょうど道路の脇が開けている場所で、ここからは港の様子が一望できる。
蒸気自動車は、少し速度を落とした。それは道が左にゆるやかに曲がっているせいなのだが、結果的に右側の窓から港の展望をゆっくり眺められる場所にもなっていた。
マリエルは、ふと窓の外に目を向けた。
ルドウィクの顔の向こう側に、海が広がる。
港には荷下ろしする人々。煙を上げる商船。そして、朝の光にきらめく海面。
そのまばゆさに、マリエルは目を細めて────ふと、気づいた。
窓の外。
先ほど見かけた人影が、まだ道路脇を走って追いかけてきている。
男は曲がり角のところで蒸気自動車に追いつき、手提げ袋からなにかを取り出した。
そして、取り出した《《なにか》》を両手に持って、こちらに向けた。
────それが、拳銃であると気づいたとき、マリエルは考えるより先に立ち上がっていた。
雷鳴のような発砲音が、車内を貫いた。




