九日目-4-
帰り道は、もはやどこをどう歩いたのか、はっきりとしなかった。
マリエルは無言で、ただルドウィクの後ろを歩いていた。
いつの間にか、冷たい雨が降りはじめていた。
濡れながら、二人は石畳の道を歩いていた。
普段ならマリエルがさっと雨傘をとりだすところだが、今日はそんなものを用意すらしていなかった。
ようやく、宿舎のホテルに戻ってくると、書記官たちが心配そうに出迎えた。
ルドウィクはそれを手で制して、無言のまま私室へと戻った。
執務室に入る。
ここも、普段ならマリエルが外套を脱がせて水滴を払うところだったが、マリエルは執務室に入ったところで、立ち止まった。
ルドウィクは小さくため息をついて、自分で外套を脱いだ。
そして、立ち尽くしているマリエルの外套にそっと手を伸ばす。
「────覚悟は、できております」
「ん?」
マリエルは、つぶやくように言った。
か細く、震えるような声。
その顔色は真っ白で、体も小刻みに震えている。
ルドウィクは、黙ってマリエルの外套を脱がせた。
マリエルは立ったまま、なされるがままだった。
その温もりが、優しさが、今はただ心に痛い。
「閣下の手で、刑に処していただけるのなら、私は────」
苦しそうに、マリエルは言う。
ルドウィクは困惑したように手を止めた。
「マリエル」
ふっ、と零れるように息を吐いて、ルドウィクはマリエルに近寄り、そっと優しく抱きしめた。
マリエルは、息を止めた。
「なぜこんなことを────などとは、聞かない」
雨で冷え切った身体を包み込むように、ルドウィクはマリエルを抱きしめる。
ルドウィクの胸の音が、耳に直接聞こえてくる。
その声は、かすかに震えていた。
「ただ……君を、守れてよかった。
────失わなくて、よかった」
低く、震える声。
その優しさに、安堵の吐息の甘さに、愛おしさに。
マリエルの喉の奥が苦しくなる。
「ですが、私は────」
掠れる声で、絞り出すようにマリエルは言った。
「閣下を……裏切ってしまいました。
閣下に嘘をついてしまいました」
涙があふれてくる。
温かいしずくが、ルドウィクの服にしみこんでいく。
「それどころか……閣下と帝国を、危険に────」
「帝国などどうなってもいい!」
ルドウィクの強い声が、耳元で弾ける。
マリエルの背中に回した両腕が、マリエルを強く抱きしめる。
息が苦しくなるくらい、強く。
「血統も、家柄も、身分も、全部どうでもいい。
そんなものを守る為に、誰かが不幸になっていいはずがない」
「閣下……」
抱きしめられた腕の中で、ルドウィクの鼓動が聞こえる。
痛いほど強く、早く。
「君を守れないのなら、帝国など守る意味がない」
強い、想い。
こんなに激しい想いを、この人はいったいどこに抱えていたのだろう────。
いつもの、優しい閣下のどこに。
マリエルの胸が針で突き刺されたように痛む。
(でも────)
「でも」
マリエルは、声を振り絞るように言った。
「私には、そんな価値など────
閣下のおそばにいる資格など、もう……」
「資格なんかいるか」
ルドウィクは頬を寄せ、マリエルの耳元で囁く。
その肌の温度に、胸の奥がじわっと温かくなる。
「……いつも言っているだろう。
君は、もっと自分を大切にしろ」
ルドウィクの指が、マリエルの頬にそっと触れた。
そして、流れ落ちる涙をすくうように撫でる。
「君は、私にとって大切なんだ。それを、価値がないなどと言わないでくれ」
────ああ、この人は。
ルドウィクの胸の中で、マリエルは思った。
捨てられるのが怖くて、役に立てないのが怖くて。
そして、いつか優しさを貰えなくなるのが怖くて。
だから、だれかに必要とされたくて。
────そんな私に、価値をくれる人だったんだ。




