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九日目-2-

 のんびりした口調。にこやかな笑顔。

 オーシン外相は、昨日と全く変わらない雰囲気だった。


「"ところで、こんな廊下の奥でなにを?応接室で待つよう申し上げたはずですが"」

 呼吸が止まる。

 全身から汗が噴き出る。

(見られた────!)

 扉に耳を当てているところを。あからさまに怪しい動きをしているところを。


「"もしかして、寒かったでしょうか?……あの部屋、日当たりが悪いんですよね"」

 にこにこと、まるで冗談を言うかのような、外相の口調。

 なんとか平然を装い、マリエルは外相に向き直った。

「"いえ、その……拾い物をしたので、お届けしようと……"」

「"ほう、拾い物ですか"」

 オーシン外相の目つきが、まるで猛禽類のようにギラッと光ったような気がした。

 震える手。急いで、持ってきた手帳を取り出す。

「"これです"」


「"おや"」

 外相は目を細めて、マリエルの持つ手帳をしげしげと眺める。

 笑顔は崩さないまま。

 それが、マリエルにはとてつもなく恐ろしかった。

「"き、昨日……無くされたと、おっしゃっていたので"」

「"確かに、これは私の手帳ですね。……ちなみに、どこでこれを?"」

「"その……応接室に……"」

 鼓動が早くなるのを止められない。

 表情に出ていないだろうか?気づかれていないだろうか?

 マリエルは生きた心地がしなかった。

「"応接室?"」

 大げさに、驚くような声をあげる外相。

 まるで芝居がかっているような、嘘臭ささえ感じる口調。

「"それは、妙ですね"」

「"な……なにが、でしょうか"」

 外相の言葉に、マリエルの心臓はさらに大きく脈打つ。

 外相は大げさに顔をしかめてみせる。


「"これは見た目は手帳そっくりですが……電信を打つための特別仕様なんです。事務エリアから持ち出すはずがないのです"」

「"た、またま、間違えた、とか……"」

 必死に、マリエルは言葉をつないだ。

「"その、手帳そっくりですし、手帳は普段から持ち歩くものですから……"」

「"いいえ"」

 外相は、ゆっくりと首を横に振りながら、はっきりと言った。

「"私が普段持ち歩いているのは、こっちの手帳です"」

 そう言って、外相は手帳を取り出した。

 赤い革表紙の、大ぶりの手帳。どう見ても、見間違えるようなものではない。

「"メモ用紙にもできる、便利なものなんですよ。ホラ"」

 外相はページを一枚破いて見せる。メモ紙と似たようなサイズの、白紙のページ。

「"これがあるから、間違えて電信用の手帳を持ち出すなんて、ありえないんです"」

「……っ」

 マリエルは、はっきり、気づいた。


 これは、罠だ。

 はじめから、全部罠だったんだ。


 視界がグラリと揺れる。

 足が震えて立っていられない。


 思えば────。

 昨日の緩さも、油断も、すべて芝居だったのではないか。

 途中で退席してマリエルを一人にしたのも。机の上に、今思えば不自然に手帳だけ放置されていたのも。

 《《うっかり机の上の手帳に手を伸ばしてしまいたくなるように仕向けられていた》》のではないか。

(やられた────)

 絶望が全身を包み込む。

 ルドウィクのためにと思ってやったことも、自分の命を捨てる覚悟も、全部。

 すべて、裏目に出てしまった。


「"さて"」

 外相は、ぐいっと顔を近づける。

 マリエルは、ぐっと緊張する。

 ────ここでうろたえたり、動揺がバレたりしたら、もうおしまいだ。

 今度こそ、完全に逃げられない。

「"ここでなにをされていたのか……教えていただけますか?"」

 穏やかな口調とは裏腹に、その質問は残酷だった。

「"なにも……聞いていません"」

 目をそらしたくなるのを必死にこらえながら、マリエルは言った。

「"会話されていたのは聞こえましたが、その……ラバルナ語は、わかりませんので"」

 とにかく、この場を切り抜けなければ。

 逃げ出せれば、あとはどうにかなるはず。

 ここで捕まるわけにはいかない。今捕まったら、この建物にいる閣下にまで危害が及ぶ。

 ────それだけは絶対に避けなければならない。


 しかし、外相は不思議そうな表情であごひげをなでた。

「"それはおかしいですね"」

「"……なにが、でしょうか"」

 ほとんど消え入りそうな声で、マリエルは言った。

「"三日ほど前────"」

 言いながら、外相はさっと手帳を開く。なにかを確認してから、それを閉じる。

「"ええ、三日前、宰相閣下が倒れられた、と伺っています"」

 マリエルの心臓が、また早鐘を打ちはじめた。

「"……なぜ、それを?"」

「"ホテルから、医務官を派遣したと報告がありましてね。ご心配申し上げていたのですよ。閣下の体調にもしもがあってはいけませんからね"」

「"……それが、なにか"」

 訝しみながら、マリエルは答える。

 ……なにを、言い出すつもりなのだろうか。

「"ただの過労、ということで一安心いたしましたよ。まだお若いのに、大変なお仕事をなさってらっしゃる"」

「……っ」


 ジリジリと、消耗していくような感覚。

 いいから早く本題に触れて欲しい、とマリエルは内心でもだえる。

「"ですから……それがなにか?"」

「"そのときの医務官から聞いたのですが……閣下の診断結果を説明した相手があなただったそうですね"」

「"……その場に、居合わせましたので"」

 あのとき。

 閣下の診断結果に、不審な点はなかったはずだ。

 そのやり取りも、医師の話として不自然なところはなかった。

 もちろん、マリエルの側にも。

「"それが、不思議なんです"」

「"……ですから、なにがですか"」

 若干イライラしつつ、マリエルは言った。明らかに焦らされている。

「"その医務官、ラバルナ語しか話せないはずなんですよ"」

「"あ……"」

「"ラバルナ語はわからないはずのあなたが、どうしてラバルナ語しか話せない医務官から説明を聞くことができたんでしょうか?"」

 思わず、全身が硬直する。


 ────そうだ。

 そうだった。

 あのときは、閣下のことが心配で、そんなことに構っている余裕などなかった。

 気にすらしていなかった。

 医師と、普通にラバルナ語でやりとりをしてしまっていた────。


 全身から、力が抜ける。

 だめだ。

 もう、逃げられない。




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