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九日目-1-

●講和会議 九日目

 朝。

 議会から届いた電信の中身は『もう一日伸ばして欲しい』というだけの短い一文だった。

 それを受け取ったルドウィクは、うなだれた。

 「また、延期か……」

 そうつぶやくルドウィクの嘆息が、とても切ない。

 マリエルはまるで胃が重たくなるような感覚を覚えた。


 これで、二度目。

 さすがに連続して返答を待たせるのは、謝罪が必要だ、とルドウィクは言った。

「私が、直接共和国の宿舎へ向かおう」

 疲れた顔で、ルドウィクは言った。


 帝国議会は、相手を待たせることをなんとも思っていない。

 たとえ帝都周辺を軍隊で囲まれていたとしても。

 それほど状況がわかっていない────マリエルには、そうとしか思えなかった。


「マリエル、一緒に来てもらえるか?」

 そう言われたとき、マリエルの心臓はキュッと締まった。

 昨日の件がまだ記憶に新しい。

(あそこへ……また?)

 思わず、拳を握り締める。

 怖い。

 あれほど怖い思いをして、ようやく逃げ出してきたのに。また、戻る?

(でも────)

 行かなければならない理由が、ある。

「ご同行いたします」

 マリエルは、毅然として言った。声が微かに震えるのを隠しきれていない。

 ルドウィクは、すこし怪訝そうにマリエルを見たが、すぐに元の表情にもどった。


 あの手帳。

 オーシン外相の名前の入った、黒い表紙の手帳。

 あれほどしんどい思いをしてようやく盗み出してきた手帳には、なにも書かれていなかった。ただ、文字数を数えるための枠が書いてあるだけの、なんの変哲もない手帳。

 マリエルは、酷く落胆した。

(あんな────あれだけの思いをしたのに)

 あれだけの危険を冒して手に入れた、せっかくの成果物だったのに。

 自身の身どころか、帝国とルドウィクにすら危険にさらしかねない愚行を犯したというのに。

 ……成果は、なし。

 ただ、白紙の手帳を一つ盗んだだけ。


 ────強く、歯をかみしめる。

 覚悟を決めたのに、なんの役にも立てないどころか、ただリスクを冒しただけ。

 あまりにも自分がみじめで、情けなくて。

 しかも、手帳を今持っているということが、すでに新たなリスクになってしまっている。

 もしこれを、荷物検査でもされて、見つかったら?

 オーシン外相の名前入りの手帳なんて、言い訳のしようがない。


(もう一度、やるしかない)

 もう一度。共和国の宿舎に入れるのなら、まだチャンスはある。

 手帳を元の場所に戻すか、あるいは拾ったことにして届ければいい。

 そしてそれを口実に、事務所スペースの中に入ることができれば。

 失敗したままで、閣下の前には立てない。居られない。

 ……もう、後戻りはできない。

 閣下を裏切ってしまった自分に、もう戻れる場所なんかない。存在する価値などない。

 暗い覚悟で、マリエルは前を向いた。




 共和国の宿舎に到着すると、昨日と同じ警備員が通訳を呼んできた。

 昨日と同じように通訳に案内され、建物の中へ入る。

 そこで待っていたのは、ロハン首相だった。

「"突然の訪問、失礼いたします"」

 ルドウィクが頭を下げる。ロハン首相はにこやかに挨拶を返した。


(よかった……外相じゃない)

 マリエルは心底ホッとしていた。

 もし昨日のようにオーシン外相が出てきたら、マリエルの心臓は止まっていたかもしれない。


「マリエル」

「……っ、はい閣下」

 ルドウィクに呼ばれて、慌てて返事をする。

「ロハン首相と会談をしている間、別室で待機していて欲しい」

「……よろしいのですか?」

 ルドウィク一人になってしまっては、警護もできないし、そもそも会談の記録ができない。

「先方が非公式の会談を提案してきた。……聞いていたのか?」

「あ……」

 外相を気にするあまり、ルドウィクとロハン首相の話を聞いていなかった。

 自分の落ち度に、マリエルは愕然とした。

「も、申し訳ございません」

 恥ずかしさと、申し訳なさのあまり、顔が真っ赤になる。

 普段のお仕事のお手伝いすら覚束なくなってしまうなんて。あまりにも自分が情けない。

「疲れているのか……?今日は、戻ったら休むといい」

 ルドウィクは優しい表情でそう言った。

 マリエルの胸がズキンと痛む。

 その優しさを向けてもらえる資格は、自分にはもう、ない。

「……そう、させていただきます」

 言葉に詰まりそうになりながら、マリエルは頭を下げた。


 ルドウィクとロハン首相は、エントランスの階段を上っていった。

 マリエルは階下でそれを見送る。

 通訳が昨日の応接室の扉を開けてくれ、マリエルはお辞儀をする。

「"今、温かいお茶をお持ちします"」

 それだけ言い残して、通訳は行ってしまった。


(今────しか、ない)

 応接室の隣。事務スペース。

 そこに忍び込んで、この手帳を戻す。証拠をなくす。

 応接室に入ろうとしたとき、足音と話声が聞こえてきた。

 思わず、扉の影に隠れる。


「────昨日、カンパニア大使が来たのは聞いてるか?」

 (カンパニアが……?)

 マリエルはじっと耳をそばだてる。

「ロハン首相が追い返したんだって?」

「仲介委任状も持たずに来たらしい。なにしに来たんだか、まったく」

「あの国らしいな。いつも行き当たりばったりで────」

 声が遠ざかる。そっとエントランスを覗くと、書記官らしき二人がエントランスの奥の廊下の角を曲がって行き、姿が見えなくなる。

 すっ、とマリエルは応接室から走り出た。


 もう少し。情報が欲しい。

 なんでもいい。閣下の役に立てそうな情報なら。


 扉の閉まる音。

 廊下の角を曲がった先に、扉があった。さっきの書記官は、この中だろう。

 マリエルは扉に耳を当てる。かすかだが、話し声が続いている。


「でも議会はビビってるらしい。条件を緩くしてもいいから講和を急げ、って電信がきてて────」

 (議会……共和国議会が?)

 胸が躍る。もしかしたら、これは有力な情報かもしれない。

 共和国の議会の動きがもっとわかれば────!


「"おや、奇遇ですねえ"」

 そのとき。突然背後から声をかけられ、マリエルは全身の血が逆流するような思いがした。

 振り向くと、そこにはオーシン外相が立っていた。




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