八日目-5-
ホテルの個室に戻ったとき、マリエルは膝から崩れ落ちた。
全身から力が抜けるほどの疲労。
こんなに、恐ろしい思いをしたことはなかった。
(でも────)
震える指で、服の中を探る。
隠し持っていた手帳が、なかなか取り出せない。
(なんで……落ち着け、落ち着け)
そう自分に言い聞かせるが、どこかに引っかかってしまっているのか、なかなか出てこない。
「マリエル?」
隣室からのルドウィクの声に、マリエルは呼吸が止まるほど驚いた。
「戻っているのか?」
「は、はい」
掠れる声で、マリエルは返事をする。
それが余計にルドウィクの不安を煽るかもしれないということに、マリエルは気づかなかった。
「入っても大丈夫か?」
「あ、いえ……少々お待ちください」
手帳を探っていたせいで服が乱れてしまっている。
マリエルは急いで乱れを整えた。
「今、そちらに参ります」
執務室へ繋がる扉を開ける。────と、ルドウィクにぶつかりそうになった。
「も、申し訳ありません閣下」
慌てて、マリエルは頭を下げた。ルドウィクが不安そうな表情をしている。
「こっちこそ、すまない。────なにか、あったのか?」
「いえ……なにも」
後ろめたさに、つい声が低くなる。
「あまりに遅いから、迎えを出すところだった。……お土産は、買えたのか?」
「あっ……」
マリエルは、言葉に詰まった。
それどころではなく、すっかり忘れてしまっていた。
「その……ちょうどいい品が、見つからなくて」
取り繕うような言葉。さすがに、ルドウィクは訝しむような顔をする。
それだけで、マリエルは泣きそうになる。
(閣下を────裏切ってしまった)
ルドウィクが、じっとまっすぐ目の奥を見つめてくる。
(言えない────)
どこで、なにをしていたか。
誰と会って、なにを話していたのか。
そんなことが知られたら、失望されるどころでは済まない。最悪、スパイ行為の隠蔽のために死罪すらありうる。
────いや、それでも構わない。
ただし、それは手帳の中身をルドウィクに伝えてから。
そうでなければ、あれほどの恐怖を潜り抜けた意味がない。
「……それで」
ルドウィクは、落ち着いた声で言った。
扉の前から一歩下がって、マリエルの入るスペースを作る。
「伝言の件は、どうなった?……こっちで、話を聞こう」
ルドウィクは、執務室へ。マリエルは慌ててその後を追った。
「共和国の宿舎には、首相は留守でした」
務めて冷静に。なるべく普段通りに見えるように。
マリエルは静かに報告を続けた。
「代わりに、オーシン外相に伝言をお伝えしたところ『帝国の事情を慮ればやむを得ないでしょう。承知いたしました』と」
「ふむ……」
ルドウィクは目を細めて、少し考え込んだ。
やはりルドウィクも外相の反応が意外だったのか、意図を探っているのか。
「その……念のために、聞くんだが」
遠慮がちに、ルドウィクが切り出した。
一瞬、呼吸が止まる。
「……なんでしょう」
「戻りが遅くなったのは……外相と話していた、とかではないのか?」
ドクン、と心臓がうずく。
「違い、ます」
────また嘘を、ついてしまった。明確に。
もう、後戻りはできない。
「そうか。……それなら、いいんだ」
ふっと、ルドウィクは目をそらした。
ただそれだけの動作なのに、マリエルは胸がズキッと痛んだ。
その声の中に微かに見える、不安。怒り。それとも、悲しみだろうか。
(────閣下を、傷つけてしまった)
呆れられる。見捨てられる。
裏切ってしまった私は、もう許されることはない。
心が、重く沈んでいく。




