五日目-1-
●講和会議 五日目
「"この条件は最低条件であり、これ以上妥協することはできない、と思っていただきたい"」
ロハン首相の言葉が、重く響く。
「"もちろん、宰相閣下が納得し、また帝国議会を説得する材料を欲するのであれば、当条件の理由についてお話しすることは厭いません"」
首相は、問いかけるように首を軽くかしげた。
ルドウィクは黙ったまま、机の下でなにかを決意するかのように拳を固めた。
この日の会談は前日に引き続き『フリジア地域の帝国の統治権のラバルナへの一次的譲渡』の議題から始まった。
しかし、前日からなにも条件が変わっていないこと、譲歩する余地がないことを繰り返されるのみで、議題は平行線のままだった。
「"一旦、この条件についての議題は先送りにして、他の条件についての議論に切り替えたいと考えます"」
ルドウィクは、なるべく落ち着いた声を作って提言する。
ロハン首相はにこやかにうなずき、オーシン外相もそれに同意する。
ルドウィクは笑顔を作りながら、力強く、声を出した。
「"では、次の条件である『フリジア及び周辺からの帝国軍の全撤退と軍事施設の全撤去』について────"」
マリエルは、少し緊張した面持ちでルドウィクを見守っていた。
※※※
「共和国側にも、休戦を急ぐ理由がある」────。
おとといの夜。
マリエルの噂話を聞いて、ルドウィクがつぶやいた。
「列強諸国が介入してくるという噂が事実なのであれば、共和国としてはその前に講和を結んでしまいたいはずだ。
……で、あれば」
部屋の中を歩きながら、ルドウィクはつぶやくように言う。
「議論が平行線でもなんでもいい。とにかく会議を引き延ばして、相手の譲歩を引き出す」
ルドウィクは、ふと足を止めた。
すでにマリエルの淹れた紅茶は冷めてしまっている。
「相手はいかにも余裕のある態度でいるが、その実、いつ始まるかわからない列強の介入に怯えている。
時間をかければ、次第に相手の態度は変化してくるはずだ」
聞きながら、マリエルはルドウィクの背中をじっと見つめていた。
この人の両肩にかかる重みを、少しでも軽くしてあげたい。
ただそれだけが、今の願いだった。
※※※
「"フリジア地域はなお帝国の領土内であり、であれば軍事権は帝国にある。この条件では帝国議会を納得させることは難しいと言わざるを得ません"」
ルドウィクは、淡々と語る。
「"フリジア地域から帝国軍及び軍事施設の全撤去を要求する理由をお聞かせ願いたい"」
そう言って、ルドウィクはロハン首相を見た。
相手に説明を要求することで、同じ話題で時間を稼ぐつもりなのだ、とマリエルは気づいた。
「"二十年ほど前の出来事ですが"」
ルドウィクの言葉に、ロハン首相はいつもの調子でゆったりと語りはじめた。
「"アクィタニアとベルガエ連邦との戦争において、戦後双方の国境から一定距離を停戦地域とし、お互いの軍事施設を全撤去した、という事例があります"」
そして首相は、まるで講義でもしているかのように、帝国側を一瞥する。
「"講和の信義を示すために軍事施設の撤去を行うことは、こうした前例があります"」
ルドウィクはすかさず、言葉を返した。
「"その戦争は、アクィタニアとベルガエの国境紛争に端を発したものだったはずです"」
「"さすが、お詳しいですね"」
オーシン外相が笑みを浮かべてルドウィクをたたえる。
ルドウィクは一礼だけして、続ける。
「"この紛争で停戦地域を設けたのは、国境を策定するまでの時間稼ぎの意味もありました。今回の事例とは異なると思われますが"」
ロハン首相は、顔色一つ変えずに返した。
「"紛争地域から軍および軍事施設を撤収することで、講和の意思を示す、という意味では同じだと考えます"」
「"しかし"」
ルドウィクが言いかけたところで、オーシン外相がそれを止めた。
「"失礼、この件の解釈は、この講和会議の意義から外れてしまいます。"」
両手を広げながら、オーシン外相は同意を求める。
「"講和が偽りではないことを示す手段としての前例である、とお考えください"」
「"……わかりました"」
ルドウィクは落ち着いた声でそう答えた。
時間稼ぎが、見抜かれている────?
マリエルは微動だにせずにルドウィクの後ろに立っていたが、全身が固くなるほどの緊張感でいっぱいだった。
ルドウィクが話題を続けようとしても、変えようとしても、あっさりと元の路線に戻されてしまう。
「"講和が偽りではないことを示す、というのであれば、他の方法もあるのではないでしょうか?"」
するとロハン首相はすこし困った顔をしてみせ、
「"講和を要求したのは帝国であって、我が共和国ではありません。帝国が真摯に講和を望むのであれば、共和国の提案に従って講和の態度を示すべきではないでしょうか"」
マリエルは祈るような気持ちで、ただルドウィクを見つめていた。
※※※
昨晩、外交長官が秘密裏に行動していた件は、すでにルドウィクに報告済みだった。
ルドウィクはそれを聞いたとき、ほとんど間を置かずに行動に出た。
その場で私信として宰相派議員宛の文書を作り、すぐに電信を送った。
対応の早さ、そしてあらかじめ根回しをしていたことに、マリエルは驚いていた。
「ありがとう、マリエル」
ルドウィクは、少し疲れたように言った。
マリエルは黙って頭を下げた。
「おかげで、先に手を打つことができそうだ」
その言葉と裏腹に、ルドウィクの表情は晴れない。
────マリエルも、胸のざわつきは消えなかった。
※※※
当の外交長官は、マリエルの通訳を聞きながらイライラと足をゆすっていた。
「余所の戦争と帝国を同列に扱うな、バカものめ」
「ラバルナ側が頭を下げるのが筋であろうに」
マリエルは、なんらルドウィクの力になろうとしない外交長官を睨んだ。
(やはり、あのとき────)
あの官吏を、追うべきだっただろうか。
やはり外交長官の出した電信を止めるべきだっただろうか。
あそこで、止めてしまった足。それが今になって、後悔に変わって押し寄せてくる。
もし、あの場で追いかけていれば。
身を挺してでも、閣下の不利益になるような行動を止めていれば。あるいは────。
そんな思いが、ずっと胸の奥でグルグルと渦巻いていた。
────そんなことをしても、閣下はきっと喜ばない。
それは、わかっている。知っている。
それでも、なにかできたのではないか、やれることがあったのではないか、という問いが、いつまでもささやきかけてくるのだった。




