初日-1-
●講和会議 初日
「"本日はこのような場を整えていただき、アウストラシア帝国政府を代表して深く御礼申し上げます"」
凛としたよく通る声。母国語かと間違うほど、淀みなく滑らかな発音のカレドニア語。 右手を胸に添える、帝国式の敬礼。しかし、その灰緑色の瞳は油断なく相手を捕らえている。
「"宰相閣下のご来訪に、ラバルナ共和国政府を代表して歓迎の意を示します"」
こちらも、流ちょうで乱れのないカレドニア語。
右手を差し出す万国共通の挨拶。しかし、柔らかな笑顔をたたえた老獪なその瞳の奥にあるものは、容易に探ることはできない。
マリエルは微動だにせず、ただぎゅっと拳を握り、純粋な敬愛と絶大なる誇りをもって己の主人の背中を見つめていた。
黒に近いダークブラウンの髪、切れ長の瞳。神経質なほど一部の乱れもない身なり。
────『黒髪の宰相』。
従来なら、白髪の老齢になってようやく就くはずの帝国内省の最高位に、若くしてたどり着いたルドウィク・フォン・ワルターベルク宰相閣下のあだ名だ。
────対するは、体格のいい白髪の老人。
共和国の大改革の主導者であり、幾多の政変を乗りこなしてきた老練な政治家。
『興国の大元勲』とすら呼ばれる大物、ロハン・オスタード首相。
室内は、金糸で共和国の紋章が等間隔で刺繍された、深い藍色の壁紙で彩られている。中央には長いオーク材のテーブルが置かれ、「中立」を意味する白いランナー布が敷かれている。
お互いに握手を交わした後、老首相に勧められ着席する。その際、ルドウィクはそっと後ろに目を向け、一瞬だけマリエルと目が合った。
その優しげな視線にマリエルは胸が熱くなる。
(見て、くださっている)
※※※
半年前に始まった戦争は、あっけなく趨勢が決した。
帝国辺境の、一地方国家に過ぎなかった共和国。産業革命に成功し、近代化を果たした共和国は、帝国領フリジア地方の内乱に介入をはじめた。
共和国を小国と侮り、軽々しく挑発に乗った帝国軍は、近代的な共和国軍の前に完膚なきまでに敗北した。
その報をマリエルはルドウィクの書斎で聞いたとき、ルドウィクが苦虫をかみつぶすような表情をしていたことを覚えている。
伝統という名の古い体制。家柄で決まる人事。名誉欲のみの作戦。たとえ奇跡が起きても勝てるはずがなかったのだ、と。
近衛兵団を中心に敗残兵をかき集めた最後の決戦も、当然のごとく惨敗。
あとは、帝都周辺の要害をいくつか残すのみとなった。
────帝国の敗北は、もはや時間の問題だった。
「すべて私の責任だ」
敗報が届いたとき、ルドウィクは呆然と天を仰いだ。
異様なほど静まり返った宰相府の執務室。ルドウィクが書き溜めた皇帝への陳情書が、執務机の周囲の床に散らばっていた。
マリエルは、それをそっと拾い集める。
「皇帝陛下をもっと早く説得すべきだった」
深い嘆息と共に、ルドウィクは言った。
「閣下はなにも悪くありません」
すかさず、マリエルは言った。
「すべては、帝国の権威を過信した愚かな貴族議員たちにあります」
この状況にあってもなお、皇帝を支える帝国議会には継戦の声が多かった。辺境の小国である共和国などに帝国の権威が傷つけられてはならない、というプライド論が根強かったためだ。
ルドウィクは彼らと、彼らに耳を傾ける皇帝への説得を続けていた。しかし、それよりも共和国軍の進行速度の方が早かったのだ。
「君は、優しいな」
ルドウィクは、優しくマリエルに微笑んだ。
「優しいだけではなく、賢い」
その言葉に、マリエルは跪いて頭を下げた。
「すべては閣下のおかげです」
それは、本心からの言葉だった。
「閣下が、身寄りのない私を引き取り、学舎に入れてくださったから────」
マリエルの家はただの平民だった。
反乱に巻き込まれて家族を失ったあの日の記憶は、今でも胸の奥にこびりつくように残っている。
そんな自分を引き取ってくれたのが、ルドウィクだった。
建国の名臣を祖に持つワルターベルク家。代々宰相を輩出してきた名門中の名門貴族。その若き当主が、身寄りのない自分に手を差し伸べてくれた。
教育を受けさせ、生きていける道を拓いてくれた。侍女として、働き口も居場所も与えてくれた。
返しきれない。返しきれるはずがない。
人生のすべてをかけてでもこの恩義に報いたい。
マリエルにとって、もはやルドウィクは神にも等しい存在だった。
せめて教育費だけでもと、勢いで娼館に身売りしようとしたのがバレたときは、ルドウィクにこっぴどく叱られた。
それでも、マリエルの決意は揺るがなかった。
「学びで得たものは、すべて君自身の力だ」
マリエルが拾いあげた陳述書の束を受け取りながら、ルドウィクはやさしく言った。
「君はもっと、自分を正しく評価していい」
言いながら、書類を持つ手がマリエルの手に重なる。そのルドウィクの指先が、つい、無意識にマリエルの指をなぞる。
マリエルの心臓が、一瞬跳ねた。
(違う────)
即座に、マリエルは否定する。
神にも等しき閣下に対して抱くものは、敬愛。そして絶対な忠誠のみ。
恋慕、情愛などといった個人的な感情など私には微塵もない。そのような不敬が許されるはずもない。
「……恐れ多い、お言葉です。私には────過ぎたお慈悲です」
そっと手を離そうとしたとき、ルドウィクの指先が一瞬だけ、マリエルの手を追いかけたように見えた。
────まるで、名残惜しむように。
マリエルはそれに気付かなかったふりをして、そっと一歩、距離を開けた。
※※※
続いてルドウィクは、背筋は伸ばしたまま、微塵の歪みもない声で言った。
「"両国にとって不幸な行き違いから軍事衝突が生じましたが、我が皇帝陛下は真摯に和平を望んでおられます。
本日の会談が再び共和国との友誼を築く第一歩となることを心より願っております"」
「"もちろんです"」
ロハン首相は目を細めて、まるで老人が孫に向けるかのような、優しく包み込むような笑顔をルドウィクに向ける。
「"今回の講和会議が、両国に再び平穏と友好をもたらす建設的な対話となることを、私も強く望んでおります"」
穏やかな口調。柔らかな笑み。
なごやかな雰囲気に反して、空気は恐ろしいほど緊張感に満ちている。
────帝国の命運がかかったこの交渉の席で。
マリエルは、ただ自分の胸に固く誓った。
(私はただ、閣下に全身全霊を捧げ尽くすのみ)




