第二章 潮風の約束
春の海は、まだ少し冷たい。
波が静かに寄せては返し、砂浜をかすかに濡らしていく。
井伊凪は、手の中のカメラを見つめながら立っていた。
ファインダー越しに見えるのは、変わらない水平線。
だが、そこに映る世界はもう“あの頃”とは違っていた。
東京で写真の仕事を始めて三年。
都会のビルと人の流れを撮る日々の中で、
ふとした瞬間に思い出すのは――あの海辺の約束だった。
「いつかまた、この海で会おう」
そう言って笑った葵と結衣の声が、
潮風の中でいまも聞こえる気がした。
駅から歩いて十五分ほど。
海沿いの道に、見覚えのある小さなカフェがあった。
木製の看板には「潮のアトリエ」と書かれている。
思わず凪は足を止めた。
その瞬間――扉が開き、
中から一人の女性が姿を現した。
「……結衣?」
凪の声に、彼女は驚いたように目を見開き、
次の瞬間、懐かしい笑顔を浮かべた。
「ほんとに……凪くん?」
「まさか、こんな形で会うとはな」
結衣は笑いながら、手にしていた花をテーブルに置いた。
「びっくりした。今日ちょうどオープンだったの」
「ここ、結衣がやってるのか?」
「うん。小さなカフェだけどね。“潮のアトリエ”って名前、覚えてる?」
凪は頷いた。
その名を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。
「あのときの、約束の名前だ」
「そう。あの海の小屋みたいに、
ここで人が集まって、何かを残せたらいいなって思って」
結衣の言葉には、確かな強さがあった。
都会では聞けなかった種類の声だった。
午後になると、店の扉がもう一度開いた。
そこに立っていたのは、少し髪を伸ばした葵だった。
「……やっぱり来てたんだ、凪」
「葵……久しぶりだな」
「ほんと、何年ぶり?」
「三年ぶりくらいか」
葵はにこりと笑い、
「変わってないね」と言った。
「お前もだよ。
でも……そのエプロン姿、ちょっと大人っぽい」
「ふふ、今ここでデザイン手伝ってるの。結衣と一緒に」
――そうして、三人は再び同じ場所に立った。
夕暮れ時。
結衣がコーヒーを入れ、葵が窓辺に花を飾り、
凪はカメラを構えた。
「なんか懐かしいな」
「ね。高校のときと、あんまり変わってない」
葵が笑うと、結衣も小さく頷いた。
「私ね、ずっとこの日を待ってた気がする」
凪はシャッターを切る。
カシャ、という音の中に、
過ぎた時間がゆっくりと溶けていった。
夜、店を閉めたあと。
三人は浜辺に出た。
潮風が頬をなで、遠くで灯台の光が瞬いている。
「この海、やっぱり好きだな」葵が言った。
「変わらないね。風も、匂いも」結衣が笑う。
凪は波打ち際に立ち、静かにカメラを構えた。
ファインダーの中、ふたりの笑顔が重なる。
その後ろに沈む夕陽が、
まるで時間の境目を照らしているようだった。
「……撮るよ」
「うん」
シャッターが切れる。
その瞬間、
凪の胸の奥で、止まっていた何かが動き出した。
ホテルへ戻る途中、葵が歩調を合わせた。
「ねぇ、凪。あの頃、覚えてる?」
「何を?」
「卒業式のあと、私、言ったでしょ。
“次は大人の私を撮って”って」
凪は小さく笑った。
「……あぁ、覚えてる」
「じゃあ、今がその時かもね」
葵の横顔に、夕暮れの灯が落ちていた。
その表情は、もう“高校生の葵”ではなかった。
翌朝。
結衣の店の前で、葵と凪は並んで立っていた。
潮風に揺れる暖簾の下、結衣が笑って言った。
「また来てね。今度は“お客さん”じゃなくて、“仲間”として」
凪は手を差し出した。
「俺も、ここで何かやってみたい」
「え?」
「写真展とか、小さなギャラリーとかさ。
この場所なら、きっといい光が撮れる」
葵が微笑む。
「……夢の続き、始まるんだね」
潮の匂いが、三人の間を静かに通り抜けた。
その日、凪は新しいページを開いた。
タイトルは、結衣の提案で決まった。
「潮のアトリエ」
――かつて、三人が夢見た名前。
写真と絵とコーヒーの香りが混じるその空間で、
またひとつの“春”が始まった。




