第一章 春の約束
桜の花びらが、黒板の前を静かに舞っていた。
教室の窓から吹き込む風はまだ冷たく、冬の名残をほんの少し残している。
「これで、最後のホームルームです」
担任の声が響いた瞬間、ざわめいていた教室が不思議な静けさに包まれた。
井伊凪は、机の上に置いた卒業アルバムをぼんやりと眺めていた。
ページの中の自分は笑っている。だが今の凪の胸には、どうしようもない虚しさが広がっていた。
「終わっちゃったな」
隣の席の藤宮葵が、小さくつぶやいた。
彼女の声は風に混じって消えそうで、それでも凪にははっきり聞こえた。
「……ああ」
返す言葉を探したが、何を言っても“終わり”という現実は変わらなかった。
東名高校の校舎を出ると、春の光が一斉に降り注いだ。
門の前では記念撮影をする生徒たちの笑い声が響き、
校庭の桜は満開を少し過ぎた頃だった。
葵は髪を耳にかけながら、カメラを構える凪を見上げた。
「最後に一枚、撮ってくれる?」
凪は無言でうなずき、ファインダーを覗いた。
風が吹く。
葵の制服のリボンが揺れ、花びらが頬に触れた。
シャッター音が鳴る。
――カシャ。
その一瞬、時間が止まったように感じた。
「ありがと」
葵の笑顔は少し切なげで、それでもどこか晴れやかだった。
凪はカメラを下ろしながら言った。
「これが、たぶん“最後”の写真になるのかもな」
「……最後にはしたくないな」
葵の言葉に、凪は目を瞬かせた。
「どういう意味だ?」
「いつかまた撮ってよ。
次は、制服じゃなくて――“大人の私”を」
葵はそう言って微笑んだ。
その瞳には、まだ見ぬ未来の光が映っていた。
放課後、凪はひとりで校舎裏を歩いていた。
カメラを首から下げ、三年間撮り続けた校舎をもう一度見上げる。
そこへ、背後から声がした。
「井伊くん!」
振り向くと、結衣が息を切らして立っていた。
転校してきて一年。
明るくて、少し不器用で、でもどこか芯のある子だった。
「よかった、まだいたんだ」
「どうした?」
結衣は胸の前で手を合わせて、少し照れくさそうに言った。
「……ありがとうって言いたくて」
「俺に?」
「うん。井伊くんが撮ってくれたあの写真、宝物なの」
そう言って差し出したのは、一枚のプリント写真。
それは去年の夏、三人で海辺に行ったときのものだった。
潮風の中で笑う結衣と葵、そしてカメラを構える凪の影。
「このときの海、覚えてる?」
「……覚えてるよ。空も海も、全部青かった」
「また行こうよ、あの海に」
結衣の言葉は、まるで祈りのように真っ直ぐだった。
凪は少しの沈黙のあと、笑ってうなずいた。
「いいな、それ」
夕方。
校門を出ると、葵と結衣が先に待っていた。
「おそいよ、凪くん!」
「悪い、呼び止められててさ」
三人は顔を見合わせて笑った。
その笑顔の奥に、別れの予感がほんの少し混じっていた。
葵が空を見上げて言う。
「いつかさ、私たちで“何か”を作ろうよ。
ここで終わりじゃなくて、続きの物語を」
結衣が頷いた。
「いいね。“潮のアトリエ”とか、どう?」
「それ、いい名前だな」
凪が笑う。
春風が吹き抜け、桜の花びらが三人の間を通り過ぎた。
――その日、三人は約束を交わした。
「いつかまた、この海で会おう」
手のひらに残る花びらが、
やがて“思い出”という名の時間に変わっていくことを、
そのときの彼らはまだ知らなかった。




