第5話 予習無し、復習で身につくオムツ替え
サトシの育休が始まった。
(職員室で「イクメン宣言」をしていたあの頃の自分に、誰かビンタしてやってほしい)
サトシはベビーベッドの前で、泣いている我が子を見下ろして、そう思った。
赤ちゃんがいる生活は、想像以上に過酷だった。
深夜2時、ふわりとした泣き声が闇を裂く。
ホギャ、ホギャ、ホギャァー
「…あ、また来た……」
ひなの泣き声で、 隣で眠っていた美柑が反射的に目を開けるが、サトシはそれを制した。
サトシはむくりと起き上がった。
「ここは俺が行くから、美柑は寝てていいよ」
サトシの部屋に設置されたベビーベッドには、世界で一番かわいい小さな怪獣……いや、娘・ひなが全力で叫んでいた。
「ひな姫、おなかきしゅきましたか~?」
サトシは、完全に赤ちゃん言葉だ。
しかし母乳タイムは母親にしかできない。仕方なく美柑も起きてくる。
「……ありがと、サトシ。選手交代ね。でもさ……3時間ごとって、鬼畜じゃない?」
「まさか人間の赤ちゃんが、時報より正確だとは……」
「授乳の前にオムツ変えなきゃ……」
「え、お腹空いて泣いてるんだから、授乳が先だろ」
「おしりが濡れてて気持ち悪いのに、おっぱい飲めると思う?」
「わ、わかった。俺がオムツを替える……」
サトシは意気込んで、ベビーベッドのひなにオムツを持ってきた。
「気持ち悪いでちゅかー? さあ、パパが早く替えてあげまちゅねー」
勢いよくテープをはがし、ひなの小さな足を軽く持ち上げた瞬間。
愛娘の下半身に近づきすぎていたサトシは悲鳴を上げた。
「ひゃっ」
ひなのちいさな足がピクッと動き、サトシの手を伝っておしっこが流れて出た。
「わわわわっ! ベッドはセーフだ。俺の手で全て受け止めたぞっ」
「よくやった! 我が夫よ! ってか、女の子でよかったね、サトシ。男の子だったら、顔面直撃シャワーだったわよ」
「……この俺が、実は女生徒に人気のカリスマ英語教師だという事実を、だれも信じないだろうね……」
美柑は笑いをこらえながら、ティッシュを差し出した。
「自分でカリスマ言う?……でも、すごくパパしてるサトシ先生も好き」
「……美柑もね。世界で一番、ママしてる」
「そりゃあ、弟のアキラで、育児は慣れてるからね……、でも慣れていないこともあるのよねー」
「何? 美柑が慣れていないことは、俺がやる! いや、俺にやらせてください!」
「無理よ」
「なんで、やりもしてないのに無理なんて言うんだ」
美柑はサトシからひなを受け取ると、パジャマからおっぱいを出して授乳しはじめた。
「母乳をあげた経験はないの。アキラはミルクだったから……。じゃ、サトシ、代わってくれる?」
「いや、無理です……」
「でしょ? フフッ」
「いやぁ、元気に飲んでいるなぁ。大きくなるのかなぁ」
「女の子は父親に似るっていうから、きっと美人さんになるわ」
「ひなの指、ちっちゃいのに、長いよな。これは将来モデルか、ピアニストか……」
「フフフ……、サトシって親バカ。ひなのベビーベッドは自分の部屋へ置くってきかなかったし」
「君だって……、一緒に寝るって言ったくせに」
「いいえ、サトシには負けるわ」
「やったー! 俺の勝ちー!」
「シー! 大きな声出さないで。やっと寝そうなんだから……」
「ごめん……」
深夜3時の寝室。
ふたりはそーっとひなをベビーベッドに戻してから、再び自分たちのベッドに入った。
午前7時、朝日が差し込むリビングで朝食を食べていた。
ひなは、軽く目を閉じて、ソファ寝ていた。
「ねえ、美柑……、なんか甘酸っぱい香りがしないか?」
「あー、ひなのオムツが汚れたのかもしれないわ」
「食事中だが……」
ホニャ、ホニャ……
「お、始まった。これは大号泣の前兆だ……」
前兆の次は、サトシの予想通り、大きいのが出ましたと言わんばかりの大号泣が始まった。
ホギャ、ホギャ、ホギャァー!!!
「はい、じゃあ今から! パパがオムツ替えま〜す! きゃわいいひな姫のためなら、なんでもしますよ〜!」
「いいよ、サトシ。わたしがやるから、先にご飯食べちゃって」
「大丈夫だよ。俺に任せろ」
あれから何度も練習したおむつ替え。サトシは少し自信を持ち始めていた。
だが、問題はこのタイミングだ。
「……うっ、なんかすごい匂い……」
少し迷ったあと、果敢にテープをはがすサトシ。
……その時だった。
ブリュリュリュ……
再発射。
あまりの衝撃に手が滑って、サトシのTシャツに直撃した。
「わっ、わっ、わっ! ま、待って! ストップ! 時間よ止まれっ!」
魔法も奇跡も効かない。これが育児だ。
しかし、よほどこれが快感だったのか、ひなは声を上げて笑いだした。
その笑顔は、まるで宝石のように輝いていた。
「あらぁ、ひなちゃーん。笑ったわ。気持ちよかったのかしら」
「……こんなに笑ってくれるなら、Tシャツ10枚やられてもいい……」
美柑は、そんなサトシを見て笑い出した。
「なんか、ほんとに……パパって感じ! もともとサトシってさー、外見と中身が違ってたけどね。やん! サトシのこんな顔、わたしだけが知ってるなんて。お得な感じ。優越感!」
「そ、そうか?……」
「いまや、すっかり“サトパパ”よ」
「やかましいわ!」
二人の笑い声が重なった。
溺愛にもほどがある。
だけど、それでいいと美柑は思っていた。
サトシ先生の育休は、まだ始まったばかりだ……。




