第4話 出禁男でも、命名権は譲れない
ある日、早朝からお腹が張るといって、美柑は入院セットの中身を確認し始めていた。
時折、苦痛に顔が歪む美柑の横で、サトシは混乱していた。
心配しながらウキウキする……、という謎の反応を示していた。
「美柑、痛いよね、痛いよね。俺は絶対立ち会うからねー。楽しみだなぁ」
「サ、ト、シ……、お母さん呼んで。お母さんと一緒に病院行くわ」
「……え、なんで?」
「サトシは心配のあまり大騒ぎするでしょ、診察室も……うっ!……」
「美柑、大丈夫かぁぁ! お願い、一生のお願い!! 生きて帰って来てー!!!」
「……、ほら、これだから、出産室も出禁だってば、……早く、親の車、回してっ!!」
「わかった。安心して俺に任せろ!」
と、サトシに任せられた仕事は、美柑の親の手配だけだった。
到着した美柑の母は、悠長なものだった。
「なーんにも、心配いらないわ。初産なんて、何時間もかかってすぐに生まれないものよ。先生はいつも通りに学校に出勤してらっしゃい!」
「ええ!!! そんなもんなんですかぁ?」
「そんなもんよ」
「はぁ、では、何かあったら必ず連絡くださいね!」
「大丈夫、わたしに任せなさい。さ、美柑、自分で車に乗って……」
サトシは、妻を乗せた車を見送る事しかできなかった。
それから5時間後。
白金女子学園に、サトシ先生の第一子誕生の吉報が入ったのだった。
(あれー? 初産は時間がかかるからって言ってたよな……、えー!? 出産に立ち会えないまま、もう生まれたの?)
診察室出禁のサトシだが、妻と姑にうまくかわされたのだという自覚もない。
幸せな男だ。
そんなサトシは、ついに父親になった。
赤ちゃんが生まれた数日後には、サトシの父(社長)と妻の父(サトシの父の部下で長谷川という男)がお見舞いに来ていた。
美柑が出産した病院の病室に、看護師さんが入って来た。
「あら、あら、今日はパパとダブルお爺ちゃんもご一緒なんですねー」
出産したばかりの美柑は謝った。
「……すみません。静かにさせますので」
「じゃ、佐藤さんの病室に、ベイビーちゃんをお連れしますね」
「ホントですか? うわー! 嬉しい!」
真っ先に手を叩いて喜んだのは、美柑ではなくサトシだった。
生まれたばかりの赤ちゃんは、病院のベビーベッドですやすやと眠っていた。
サトシとの間に生まれた我が子を見て、美柑は感動していた。
「うわー、かわいい。天使みたーい。ねえ、まつげ長いよ、すっごいイケメン。サトシにそっくりだわ」
「え、美柑。この子は女の子って聞いたけど……」
「あ、そうだった。女の子だっけ。間違えちゃったー」
美柑が明るく笑うと
サトシの父と美柑の父もツッコまずにいられなかった。
「出産直後の割には、美柑ちゃんは元気だな。長谷川、そう思わんか」
「母親に似たんでしょう。お恥ずかしい限りです、社長」
美柑は自分の父に言い返した。
「やーね、お父さんったら。まるで娘は母親に似るみたいな言い方。それじゃあ、この子もわたしに似るのかしら。だとしたら、可哀そうだわ」
「美柑、結構な事じゃないか」
長谷川の優しい言葉に、美柑は笑った。
「なーにが? もう! 変なじぃじですねー」
そう言って、美柑は生まれて来た子に話しかけた。
「じぃじ……?! って、誰」
サトシの父も長谷川と同じことを言った。
「君だろ。ってことは、わしも……、じぃじか……」
「だね」
と、サトシは軽く流した。
そして、愛する妻にささやいた。
「こんなに可愛い天使を産んでくれて、ありがとう。名前は二人で考えた、アレで……?」
ところが、サトシ父がここで思わぬ王手をかけてきた。
「名前だが……、この子の名前は“希望”って書いて“のぞみ”がいいと思うんだが。未来を担う子にはふさわしい名前だぞ」
「父さん、それ男の子にも女の子にも使えるって、前から候補にしてたやつ。性別わかる前の案だろ」
「初孫の名前は、男親の父がつけると佐藤家は代々決まっているんだ! それにな、男の子にも女の子にも使える名前の方が、時代に合ってる!」
「いや、今回は女の子って確定してるんだよ。しかも俺、もう考えてるし」
生まれたての小さな命を挟んで、サトシ先生とその父が軽く火花を散らしていた。
「フン、それで? お前はどんな名前を考えてるんだ?」
「ひな、って名前。“陽菜”って書くんだ。太陽のように明るく、菜の花のように愛らしく育ってほしいから。何より、Yellowは美柑が好きな色だし……」
「……軟弱者め。もっとこう、女の子でも聡明な名前の方が……」
「父さん! それ、俺の妻の名前に文句言ってるようなもんだよ。ね、長谷川さん」
「え、社長が名付け親になるなんて、光栄ですから、いいんですよ」
その長谷川の意見に声を挟んだのは、ベッドで休んでいたはずの美柑だった。
彼女の顔はまだ少し疲れていたが、若さで回復力は早い。
その目元はやさしく笑っていた。
「わたしは“美柑”って名前、自分で気に入ってます。果物の名前だけど、甘くて酸っぱくて、バランスが良くて……。お父さん、ありがとう」
「美柑……」
そうつぶやくと、泣きそうになった長谷川を見て、サトシの父は羨ましくなった。
「わしだって、子供の名前を付けたかった……」
サトシの父は視線を落した。
というか、じいじ社長だ。
美柑の名付け親である長谷川じぃじは、申し訳なさそうに頭を下げたが、下げた顔は嬉しさを隠せなかった。
じぃじ社長は昔から几帳面で、縁起や姓名判断を信じているタイプだった。
すでに何冊もの命名辞典を読破し、五格や画数まで調べてリストアップしてきていた。
「“ひな”か……確かに響きはいい。でも、“菜”の字は画数がちょっと……。わしの本によると……」
「父さん。もう“ひな”で決まりだよ。俺がこの子に伝えたい想いを込めたんだ。それに、名前に正解はないって。この子の人生はこの子が切り開くんだよ」
「ぐ……!」
さすがのじいじ社長も、教師の息子の説得には言葉が出なかった。
病室の中では、ちいさな“ひな”がきゅっとまぶたを閉じたまま、夢の中にいた。
全員の視線がそこに集まっていると、ふと空気がやわらいだ。
「……まあ、いい名前だな。陽菜。あったかくて、未来が明るそうだ」
そう言って、じいじ社長は陽菜という名前を認めた。
「でしょ?」
サトシはにやっと笑って肩をすくめた。
「……けど、“ひな”って名前の子は、反抗期が来るのが早いって占いで――」
「もう、占い禁止! 姓名判断の本は母さんに処分してもらうからな」
「うぐっ!」
結局、美柑のベッドの周りは、どっと賑やかに笑いがあふれた。
サトシ先生の生まれたばかりの娘は、この日、陽菜と命名された。




