第16話 ママじゃないよ、美柑だよ
ひなは3歳になった。
朝、テレビをつけっぱなしで、美柑がご飯の後片付けをしていると、見覚えのある顔がテレビのニュース解説員として映った。
―「では、一ノ瀬解説員に、このニュースのポイントを解説してもらいます。一ノ瀬さんは、この地域で記者としての活動をされているんですよね」
―「はい、この国は内部反乱が続き、避難生活している人たちが多いエリアです」
―「日本の支援は届いているのでしょうか」
―「はい、届いてはおりますが……、」
美柑は食器を片付ける手を止めて、テレビの画面にくぎ付けになった。
白金女子学園から一緒に同じ大学へ進学した親友の一ノ瀬だ。
あの一ノ瀬がが、テレビで世界情勢について堂々と解説している。
彼女は、学生時代からの夢を叶えていた。
「おい、一ノ瀬って、あの一ノ瀬じゃないか?」
「うん、そうだね」
「すごいなーあいつ。さすがだよな」
サトシは自分の教え子の一ノ瀬を褒めた。
「パパ、おしっこー」
「え、ひなちゃん、トイレひとりでできるよね」
「パパと一緒がいい! おしっこー!」
「はいはい、じゃ、急ごうねー」
サトシがひなをトイレに連れて行っている間、美柑は食器を洗いながらため息をついた。
いつものようにお弁当の用意と、いつものようにひなの保育園バッグの用意をした。
サトシとひながリビングに戻って来ると、サトシ用のお弁当箱はもう準備されていた。
「お、サンキュ。じゃぁ、行ってくるね。ひなー。ちゃんとママの言うこと聞くんだよー」
「わーた! いってらっちゃーい、パパ!」
「あれ? ママは?」
「いいから、早く行って! 遅れるよ」
(……何か、気に障ったのかな?)
サトシは、美柑の態度を気にしながら出勤した。
お昼休み。
サトシはワクワクしながら、美柑の作ったお弁当を机に出した。
隣の席の工藤先生が羨ましそうに、茶化しにきた。
「いいなー。美柑ちゃんは、学生の時から料理上手だったからなー。サトシは今日も愛妻弁当か。この、この、このー」
「ハハハ、そんなことないよー」
照れながら、お弁当箱の蓋を開けると、一面真っ黒い海苔が敷き詰められていた。
「あれ? ブラック・ジョークかなー? うちの奥さん冗談好きだから」
だが、お弁当のご飯を掘っても、掘っても、中は白いご飯だけだった。
サトシの顏は青ざめた。
「これって、何かの挑戦状? まさか、宣戦布告?」
「サトシ先生! しっかりしてください。奥の方に梅干しが一個入っているかもしれませんよ。あるいは、海苔の下に、ごま塩がふってあるとか……」
期待しながらの掘削作業を続けたが、期待していた物は無く、食事は虚しく終了した。
サトシが落ち込んでいると、必ず心配してくれるのは工藤先生だ。
「今朝、何かあった? それとも、ひなちゃんがぐずって、時間が無かったとか……」
「工藤、ありがとう。……心当たりがない」
夕方、美柑からのLINEが届いた。
《保育園のお迎えをお願いします》
(なんだよ、他人行儀みたいな頼み方して……)
サトシは、ひなをお迎えに行くと、他の保護者や先生たちに囲まれて、キャーキャー言われた。
「ひなのパパー! ひなのパパだからー。イヤー、さわんないでー!!」
ひなは、必死にサトシファンのガチ勢から、パパを守った。
夕飯が済んでから、美柑は帰宅した。
「ただいまー」
「ママ―! おかえりなさーい。だっこしてー!」
「うん、待ってね。今、手を洗うからねー」
「パパねー、保育園で先生と、よそのママたちに、モテモテだったんだよー」
サトシは、あわてて付け足した。
「ひ、ひなちゃん、モテモテなんて言葉、いつの間におぼえたのー?」
「きょう」
美柑は、ひなに優しく言った。
「すごいねー。もうそんな言葉覚えたの。パパがモテモテなのはね、ひなが生まれる前からずっとなんだよー。ママはもう慣れちゃった」
「それって、すごいの? ママ」
「ええ、すごいことなんだよ」
「でも、ひなはいやー。だって、パパはひなのパパなんだもん」
「そうだねー」
サトシは、ひなの言葉に胸がいっぱいになった。
「ひな、パパはひなのパパだよ」
しかし、娘の返しは鋭かった。
「ひなのパパで、……ママの……あれ? ママの何?」
「は?」
「パパは、テレビに映ったお姉さん見て、パパ、こーんないい顔ちてました」
「え、そう? 一ノ瀬かな? ママは一ノ瀬にやきもち焼いてたの? そんなわけないよな」
その言葉に美柑は、サトシの腹にボディーブローをくらわした。
「うっ……」
「言っておくけど、わたしはひなのママだけど、サトシのママじゃないから。ちゃんと美柑って名前があるの」
サトシは、床に倒れながら、怒る美柑を見上げていた。
「もちろん……」
「わたしだって、海外でバリバリ活躍する仕事がしたかったわ。そのために勉強したのに……」
美柑の言う通りだった。
それは、サトシも気にしていたことだった。
それを言われるとぐうの音も出なかった。
そばで見ていたひなが泣き出した。
「うえーん……パパがかわいそうー! ママ、パパをいじめちゃダメーーー」
サトシは、ゆっくりと起き上がってひなを抱きしめた。
「パパはいじめられてないよ。大丈夫だからね。ひな、アニメのビデオ観ようか。昨日の続きから……」
「うん、……でも、パパ痛い痛い。ママおこってる」
美柑は、ひなに笑顔で応えた。
「ごめんごめん、いじめてないよ。ちょっとふざけてただけ。そうだ、ひな。フレッシュジュース作ってあげるねー。待っててねー」
ひながビデオに夢中になっている間に、サトシは美柑に謝った。
「ごめんね。美柑の夢をつぶしたのは俺だ。君が大学進学を決めた時から、結婚生活かキャリアかは、俺もずっと迷っていたんだ」
「……」
「ホント悪いと思ってる。今からでも、キャリアは積めるよ。海外で活躍したいなら俺は全面的に協力する」
「……」
「君が行きたいなら海外転勤してもいいよ。君の夢を俺のせいで壊したくない。大丈夫、ひなは俺が育てる」
「いやよ。……そんなの無理! 家族が離れて暮らすなんて、そんなの絶対いや!」
「じゃあ、俺も転職する。美柑が行くところなら、どこへでも」
美柑はサトシに抱き着いた。
「それも嫌。サトシ先生じゃなくなるなんて、……そんなの嫌」
「……嫌か。そうか、やっぱ高校教師しかないのかなぁ」
「そのままでいて。……夢を叶えた一ノ瀬を見て、わたしはうらやましかっただけ。それを、サトシは一ノ瀬はすごいなーって褒めるし。なのに、わたしのことは名前じゃなくてママって呼んで。同じ学年だったのに……、わたしはもう女じゃなくなったような気がして、悲しかったの。ただそれだけ。」
サトシは、美柑のストレートボブヘアを、優しく撫でた。
「そっか、ごめん。世界情勢も大切だけど、うちの家庭情勢をうまくコントロールしているのは、美柑だよ。美柑が世界に飛び出すなら、三人一緒に飛び出そう」
「……それ、慰めてるの? なんか違う―」
ひながふりむいた。
「ママー、ジュ―ス! まだぁ?」
「今持って行くね。ごめんねー」
美柑は、ベビーカップにリンゴジュースを入れながら言った。
「こうして、我が子にジュースを飲ませられるんだもの、幸せよね………。わたしは、やっぱ、ここが一番いいわ」
「うん、俺の奥さん最高すぎるーーー!」
サトシは、真っ黒いのり弁のことは、一言も責めなかった。
それだけではない。
ジュースを持って行こうとした愛する美柑を引き寄せて、キスをした。




