第15話 トイレトレーニングは侮れない
ひなが2歳半になり、トイレトレーニングが始まった。
ある日のこと、「おしっこ」と言ってから美柑は急いでトイレに連れて行ったが、間に合わなかった。
ひなは、トイレの前でお漏らしをしてしまい、それが悔しかったのか大泣きした。
「ひな、ママは怒ってないよ。泣かなくてもいいのよ」
「ギャーーン、お漏らし、いやーーー!!」
「失敗がそんなに悔しいの? 負けず嫌いね。誰に似たのかしら……」
濡らしたトレーニングパンツを脱がせ、床を掃除しながら美柑はふと思った。
(あ、わたし似か……)
そこへ、サトシが帰宅した。
玄関からサトシの「ただいまー」と声が響いた瞬間、ひなは涙目のまま立ち上がった。
「ぱぱー!」
その小さな身体が一直線に走って来たかと思うと、ジャンプしてサトシに飛びついた。
「うわっ、ひな! ちょ、まっ――」
ドンッ!
サトシは受け止めきれず、廊下に尻もちをついて腰を強打した。
「うわっ! いったたた……」
サトシが顔をしかめる横に、美柑は慌てて駆け寄った。
「ちょっと、大丈夫!? ぎっくり腰になったらどうするのよ! ひながやったの?」
「ひなが飛んできた……」
「マジで!? 今、お漏らししちゃって、まだパンツ履いてなかったんだけど」
「え、濡れたお尻で俺の上に乗ったの?」
ひなは泣きべそをかきながら、パパの顔をのぞき込んだ。
「……ぱぱ、いたいいたい?」
サトシは苦笑した。
「うん、ちょっと痛いかな」
すると、ひなは両手でサトシの腰をなでなでし始めた。
「いたいいたい、いたいいたい、飛んでけー! バイバーイ」
さっきまでおもらしで大泣きしていたのが嘘のように、今度はパパを慰めようと必死だった。
「……なんか、さっきまで泣いてたのに」
美柑は呆れ半分、微笑み半分でひなの仕草を見守った。
「そうか、ひなはもう“お姉さん”なんだな。パパを助けてくれるんだ」
サトシが頭をなでると、ひなは胸を張った。
「ひな、できる!」
と、宣言した。
美柑は肩をすくめつつも、心の中で……
(トイレトレーニングは、まだまだ長い戦いになりそうだわ)
「いったたた……」
サトシは腰を押さえながら、なんとか立ち上がった。
(やばい……明日はテスト監督だ。……できるだけ安静にしてよう)
サトシは、なんとか寝室まで歩き、カバンを置いて着替え始めた。
(あ、トイレ行きたくなった。腰が痛いけど、食事の前にトイレいっておこう)
必死に廊下を進んで、トイレのドアに手を伸ばした。
……が、誰かの気配がした。
「ひなー? 入ってるの?」
「はいってるー!」
元気いっぱいの声が返って来た。
気づかれないように、遠慮しながらそーーっとドアを少し開けると、中にはクマのぬいぐるみを抱いたひながちょこんと便座に座り、真剣な顔でぬいぐるみに語りかけていた。
「くまちゃんも、トイレできるんだよ。がんばれ、がんばれ……」
(ひな……頼むから今だけは早く譲ってくれ……!)
サトシは内心泣きながらも、顔はにっこりとほほ笑んだ。
「そうか、ひな、えらいなぁ。くまちゃんも一緒に練習してるんだね」
「そう! ひな、おねえさんだから!」
嬉しそうに胸を張るひな。
サトシは腰を押さえつつ、ドアの前でしゃがみ込んだ。
(……お、おねえさんもいいけど、パパの命も危ういんだが……)
それでも、目の前で一生懸命な娘を見てしまえば、叱ることなんてできない。
サトシは苦しさに堪えながら、にっこり笑って言った。
「じゃあ、パパもひなのおねえさんごっこが終わるまで、待ってるよ」
ドアの前で冷や汗を流すサトシ。
(だ、だめだ……もう限界……!)
その時、後ろから足音がした。
「……ひな、またトイレ占領してるの?」
振り返ると、美柑が呆れ顔で立っていた。
「ひな、くまちゃんとおままごとで遊んでいいけど、ここはトイレだよ。パパ困ってるでしょ?」
「……あ」
ひなはクマをぎゅっと抱えたまま、ばつの悪そうな顔をした。
美柑はそっと娘の肩を押し、すばやくサトシをトイレへ誘導した。
「ほら、サトシ。早く入って」
「み、美柑……女神……!」
腰をさすりながら、サトシはトイレに飛び込んだ。
その背中を見て、ひなが小声でつぶやいた。
「……パパは、おねえさんじゃないのに……」
美柑は思わず吹き出し、ひなを抱き上げて言った。
「そうだね。パパは“おねえさん”じゃなくて、“おっさん”……でもなくて。“ひなのお父さん”……だから特別なの」
ひなはきょとんとし、やがてにっこり笑った。
トイレの中から……
「ありがとおおお!!」
というサトシの情けない声が響き、美柑とひなは、弾けるように笑った。
トイレから出てきたサトシは、ほっとした表情を浮かべたものの、腰をさすって「イタタタタ……」と顔をゆがめた。
「もう……無理してひなを抱っこするから」
「いや、違うって。いきなり、ひなが飛んで来たんだって」
美柑は呆れながら、薬箱を取り出して湿布を用意しはじめた。
「ほら、シャツめくって。背中向けて。ベルトを緩めたら、ベッドにうつ伏せになって」
「えっ……、美柑……今から第二子を製造するのかな?」
「ばか。冗談言ってないで早くして」
「こ、こう?」
「そうそう。動かないでね。……えっと、このへん?」
冷たい湿布が腰に貼りついた瞬間、サトシは「ひゃっ」と変な声を上げた。
「ちょ、冷たっ! 心臓止まるかと思った!」
「子どもじゃないんだから、これくらい我慢しなさいよ」
ひなは横で、クマのぬいぐるみにも小さな絆創膏を貼ってあげていた。
「くまちゃんも、パパといっしょ~」
「おお……同士よ」
サトシは苦笑しながらぬいぐるみに語りかけた。
美柑はため息をつくと、最後に軽く腰をぽんと叩いて言った。
「まったく、世話が焼けるんだから。……でも、そういうところが……ほっとけないのよね」
サトシは照れ笑いを浮かべ、湿布の上から腰を押さえながら小声でつぶやいた。
「ありがと、美柑。愛してる……そろそろ、第二子を製造……」
「ちょ、サトシ?……」
すると、この夫婦の間にひなが割り込んできた。
「次、ママの番! ママにもぺったんこ」
と、嬉しそうに絆創膏を差し出して、美柑は笑った。
サトシも笑いながら、ちょっと残念がった。
(ああ、ひなちゃん、もうちょっとタイミング遅らせてくれたら、ママとチューできたのに……)
家族で笑っていると、寝室にふわりと湿布の独特な香りが漂い始めた。
ひながクンクンと鼻を動かして、無邪気に一言。
「パパ、なんか……おじさんのにおい~!」
「ぐはっ!」
サトシはベッドに深く沈みこんだ。
「心の痛みと腰の痛みが、同期している……」
美柑は吹き出しそうになるのを必死にこらえ、肩を震わせていたが、ついに我慢できなくなって、サトシの背中を叩いた。
「第二子製造なんてふざけたこと言ってないで、早く寝なさい!」
「そんなぁ……。ご飯、Give me ご飯」
「ひな、パパにご飯を食べさせてあげてね」
「はぁーい♡」
「おままごと?」
サトシ先生は、今日も妻子に溺愛されて……いた。




