第13話 ギャン泣き姫の自立
ひなの転園からちょうど一週間がたった。
慣らし保育が無事終わり、晴れて“通常保育スタート!”と喜んだのもつかの間。
「行かないのー! 保育園行かないのーっ!!」
玄関先でひなは、ギャン泣きした。
服の袖を引っ張るわ、美柑の足にしがみつくわ、ついには床にバタリと大の字になった。
順調な慣らし保育に、いつかはこんな日がくるかもしれないと美柑は覚悟していたが、ここまで反抗されると、つい語気が荒くなってしまう。
「ちょっと、ひな……もうすぐママ、お仕事の時間だってば……」
「ぜったい行かない! ずーっとママといたいのー!」
朝の白熱のバトルはすでに三日目だった。
ぬいぐるみ作戦、好きなおやつ作戦、「お迎えはパパが行くよ」作戦……全て玉砕した。
どの作戦も、“ひな”という小さな将軍の前に、あえなく敗れ去った。
「……ダメだ。今日は、もう無理」
そして、ついに美柑は白旗を上げた。
ひとまずここは保育園をお休みさせて、頼れるあの人物に電話することにした。
「……お母さーん、お願い。今日だけ、来てくれない?」
―『ふふっ、ついに来たわね。待ってたのよー、その言葉』
……十分後には、美柑の実家から、強力な助っ人(美柑の母)が颯爽と到着した。
「ほぅら、ばあばと遊ぼうねー、ひなちゃーん。美柑、今のうちにさっさと仕事に行きなさい」
「お母さん、ごめんね。今度お店手伝いに行くからねー」
そして、その日の夕方。
白金女子学園、放課後。
英語科教員サトシ先生は、いつものように颯爽とネクタイをゆるめると、コートを羽織りながら保育園へと向かっていた。
「今日はひな、何を話してくれるかなー。昨日の紙芝居のつづきかなー。いやぁ、よかったなぁ、学校の近くの保育園に転園して。すぐひなに会えるなんて、……俺は幸せすぎる」
そんな穏やかな気持ちでお迎えに行くと、保育士さんがにっこりと笑って出て来た。
「あれ? サトシ先生。今日はひなちゃん、お休みでしたよ?」
「……えっ?」
突如、脳内に警報アラートが鳴り響いた。
ビー、ビー、ビー、ビー、ビー、ビー……
(まさか、風邪!? 熱!? 保育園の連絡帳、見逃した!?)
「す、すみません、間違えましたっ!!」
靴もちゃんと履かぬまま、タクシーに飛び乗って家路を急ぐサトシ。
念の為、説明しておこう。
サトシの家から、学校も、保育園も、すべて徒歩圏内にある。
それでも、この男はタクシーの初乗り料金を払って、自宅へ帰った。
家の玄関を開けて、サトシは娘の名を呼んだ。
「ひなー!」
「あーら……おかえりなさーい」
出迎えたのは、エプロン姿で夕飯を作る、美柑の母だった。
「お、お義母さん……!?」
「ひなちゃん、もう寝ちゃったわよ。ほら、今日は朝から機嫌悪くてね。でももう大丈夫」
「すみません。保育園を休んだって聞いたもので、熱でも出したんですか?」
「いいえー、ただの登園拒否ですよ。今まで順調だったのが不思議なくらい。登園拒否するくらいがちょうどいいのよ。心の成長には必要な時期なの。サトシ先生だって生徒さんたち見てて、ご存じでしょ?」
美柑ばあばの余裕に、サトシは安心した。
(なんだ、登園拒否か。順調に育っているじゃないか、うちの娘!)
しばらくしてから、美柑は仕事から帰って来た。
「ただいまー。ごめんね、お母さーん」
帰って来るなり、そのままぐったりとリビングのソファで倒れた。
「……私、もうダメ……心が折れた……」
サトシはそっと妻の横に座ると、お茶を差し出した。
「……いや、すごいよ。毎日これを一人でやってたなんて」
「でしょ……? ねえ、今度、ひなと一緒に実家に帰ってもいい?」
「ダメです」
軽くジャブを入れながら、二人はくすくすと笑いあった。
その様子を見て、美柑ばあばはふっと笑った。
「まあ、夫婦そろってギブアップなら、わたしの出番ね。今日みたいな日は遠慮なく呼んでちょうだい。じゃあ、そろそろ、ばあばは帰るわね。あ、そうそう。生意気になったアキラたちに会いにたまには来なさいよ、美柑」
美柑ばあばを見送った後、夕食を食べ、サトシは疲れ切った妻のために皿を洗った。
夕飯後、落ち着いたところで、サトシは何気なく聞いた。
「……ていうか、保育園の先生、なんで俺のこと“サトシ先生”って呼んでたんだろ」
「え? それたぶん……私、入園書類に職業“教員(英語)”って書いたからじゃない?」
「……まさか俺が白金女子の“サトシ先生”だと、保育園にバレてる……!?」
「うん、バレているっていうか、勤務先を知っているからね。だってバリ地元じゃん。有名だよ。SNS動画再生回数がすごいもん」
サトシ、しばし固まった。
「じゃあ、“奥さんがめっちゃ美人説”も、保育園に伝わって……?」
「さぁ、それはどうかな?」
その晩、眠るひなの隣で、サトシは美柑にぼそっとつぶやいた。
「明日も泣かれたら、俺も一緒に泣こうかな……。こんな小さい子にとって、環境が変わるって凄いストレスだよ。かわいそうで俺も泣きたいよ」
「うん、泣いたらいいよ。二人で一緒に泣いちゃおっか」
ーー翌朝。
玄関で、ひなはまた眉を八の字にしていた。
「……いきたくない……ママといたい……」
サトシは、そっとしゃがんで、ひなの目線に合わせた。
「そっか。……じゃあ、パパは今日も、ひなのお迎えに行けないんだね。寂しいなぁ……うえぇぇん……」
思い切って号泣のふりをするつもりが、本当に悲しくなって泣いてしまった。
すると、隣で美柑もハンカチで目元をおさえた。
「ひなぁぁ~。パパがかわいそう。保育園のお迎えがパパの生きがいなのよー。お迎えさせてやってー!」
こっちはウソ泣きだったが、一応それらしく涙声で続けた。
子どもにとって、思わぬダブル号泣だ。
すると、ひなは、ぴたっと泣き止んで、泣き続ける両親をぽかんと見つめた。
「……なにしてるの?」
「え……泣いてるのよ。ね、パパ?」
「うん、ひなのお迎えしないと寂しいから……」
「……」
すると、何を思ったのか、
ひなは黙って玄関の方へトコトコ歩き、靴を履き、リュックを背負った。
そして、決心したようにきっぱりと言った。
「……パパとママが泣くのダメ。ひな、がんばるから、泣かないで!」
きらきらの涙目をこらえて、背伸びしながら小さな手で玄関のドアノブを握る姿を、サトシも美柑も思わず見守ってしまった。
「ひな……おとなだ……」
「……将来、大物になるね……」
まさかの展開に涙を引っ込めたのは親の方だ。
サトシ先生と美柑にとって、娘の成長を感じた、忘れられない朝となった。




