第11話 サトシ先生のワンオペ育児
「……というわけで、大学卒業前に、一度くらい海外旅行に行きたいなって思ったんだけど」
夕食後、ひなを寝かしつけた後のリビングで、美柑が言いにくそうに切り出した。
「友達と? いいんじゃない? 大学の友達は大切だし、海外経験は大事なことだし」
サトシは驚くほどあっさりとOKを出した。
美柑は目を見開いて瞬きした。
「ほんとに? サトシ、ひなと二人きりだよ? 全部やるんだよ?」
「わかってる。育休のときより成長してるし、任せろ。美柑は安心して海外旅行してきなさい」
「嬉しい。サトシパパ最高! 愛してるー」
「ハハハ、照れるからよせよ。ところで、海外ってどこ?」
「中東」
「ダメ―!! 紛争地域じゃないか。危険すぎる。美柑に何かあったら、俺は生きていけない!!」
「トルコだから大丈夫よ」
「もっと安全な国にしてー」
「もう決めちゃったから……それに、西の文化と東の文化の交差点、どうしても見てみたいの」
「ううう……、わかった。じゃあ、ちゃんとグルメレポートしてくれる? メールでも電話でも」
「グルメ? そこなんだ、ツッコミどころ……。うん、するよ。次は家族で海外旅行しようね」
「約束だよー」
「って、これ立場が逆じゃない? 普通、旦那が妻子を連れて行くでしょ」
「ごめん……。甲斐性なしの高校教師で」
サトシはズーーンと落ち込んだ。
父親に逆らった結果、教師で落ち着いた自分が恨めしかった。
そんなサトシの背中を見て、美柑は悪いことを言ったかもしれないと思った。
「あ、そういうつもりで言ったんじゃないわ。ごめんなさい」
「いいんだ。美柑が望むなら、俺は転職する……」
「別に、高校教師でいいじゃん。誰も先生を辞めろなんていってないじゃん」
「うん、……ありがとう。俺がいつか美柑とひなを海外に連れて……」
「いつか実現してね。それじゃ、ひなを頼んだわよ」
(……大丈夫さ、たぶん)
心の中でちょっとだけ保険をかけつつ、サトシは笑顔で送り出した。
そして数日後――
ワンオペ育児の幕があがった。
■初日・朝、ヘアセット地獄スタート
「パパー、これちがーう!! ひも、ぎゅーって!! 痛―い、いやぁーー!」
三つ編みどころか、ゴムも留まらない。
リボンも謎の方向に飛んでいく。
結果的にリボン×5、ピン×3、謎のヘアスタイル完成した。
(……これ、アートってことで通らない?)
保育園の先生が笑顔で言った。
「今日のヘア、個性的ですね〜」
「はい、現代アート風にアレンジしてみました」
■夕食は食卓バトル
「パパ、これママのごはんじゃない」
「いや、これは“ママ風のパパレシピ”だよ。チーズオムライス、習った通りだし……」
「ちがうのー! ママのじゃないとやーなのー!」
食卓は、完全にひなのストライキ状態だ。
「じゃ、こうしよう。ここはひなのレストランでーす。パパはコックさんね。ひなはお客さんでーす」
「やー! ひながコックさん、パパがお客さん!」
サトシはひなの言う通りにさせた。
苦肉の策で始めた「ひなレストランごっこ」で、コックさん役のひなは言った。
「きょうのおすすめでしゅ。どうぞ、めしあがれ」
「え? パパが食べるの?」
「パパ、あーん」
「あーん」
(……あれ? なんか俺が育てられてる気が……)
■夜、寝かしつけ地獄ふたたび
「パパじゃいやぁ……ママのにおいがしないぃ……ママがいいのー。ママがいいのー」
「まいったな……。あ、そういえば洗濯機の中にまだ洗ってない物が……」
サトシは、ついに美柑の洗濯前のTシャツを娘の枕元に配置することにした。
「ほーら、ママの匂いするねー。安心するねー」
しかし、ひなは正直過ぎた。
「……くちゃい」
サトシは少し傷ついた。
「パパ、お話してー」
「そうだねー、何がいいかなぁ」
最終手段として、サトシは「ひなとパパのぼうけん」を自作して聞かせることにした。
世界を旅する親子の物語に、ひなは目をキラキラさせながら聞き入った。
「……パパ、かっこいいねぇ……」
(お、おう……泣きそう)
そのまま、ひなはすやすやと眠りについた。
サトシも、涙と疲労でその場に崩れ落ちて、寝落ちした。
■〇日目の夜:限界ギリギリ
ごはんは冷凍食品かウーバー、洗濯物は山積み、洗面所には未使用おむつ。
それでもサトシは頑張っていた。
寝落ちしないよう、カフェインを過剰摂取し、娘の寝息を聞きながら、スマホで絵本の構成を考え直していた。
サトシ先生、小説家になろう。
そんな夜だった。
スマホ画面に、美柑からの着信があった。
サトシは、速攻で電話に出た。
「もしもし……ひなは?」
「美柑、どうだ? 生きてる? ひななら、寝てる。今日もパパの冒険絵本で撃沈だよ」
「すごーい、やるじゃん。ひな、楽しそうだった?」
「うん。でも……やっぱママがいないと寂しそうだった」
「……そっか。パパは?」
サトシ、一瞬の沈黙。
「……俺のほうが寂しいかも」
「……ばか」
「……愛してる」
「……ばか」
■そして、やっと帰宅の日が来た。
サトシは必死に家を片付けて、「ちゃんとこなせてた風」を演出しようと必死だった。
床に散らばったおもちゃや衣類はとりあえず、クローゼットの中に放り込んでいた。
「ただいま〜!」
玄関が開くと、ひなが全力で駆け寄った。
「ママーーー!!!」
「おかえりーーー!!!」
ひなの後ろには、サトシが目の下にクマを作って、なんとか立っていた。
髪はぼさぼさ、シャツは裏返し。完全に戦い抜いた男の顔だった。
「ひな、サトシ、ただいま。あら、思ってたより部屋がきれい。うわぁ……がんばったね」
「……うん……しんだ……でも、娘は、無事です。あと……冷蔵庫におむつ冷えてるけど、それはミスです」
「……オムツが? ちょっと意味わかんない。でも、うん、よく頑張った。サトシ、ほんとありがと」
「いやもう……やっぱり俺、一人じゃ無理だった」
「ありゃま、それはそうでしょー?」
その夜、ベッドで久しぶりに三人は川の字になって寝た。
ひなは、ママの腕の中でうとうとしながら、ぽつりと呟いた。
「パパ、がんばってたよ……だいすき」
サトシは、無言で涙腺崩壊した。
顔を布団に埋めて、震える声でひと言。
「……しあわせすぎて、死にそう……」
「ダメ、ちゃんと生きて。老後はサトシの年金にかかってんだから」
「えええ! 俺は金のために生きるの!?!?」
「冗談よ。……あーぁ、やっぱり、我が家が一番ねー」
「旅行から帰って来たおかんかよ……でも、可愛い」
「え?」
「美柑が帰って来てよかったって言った」
美柑はふっと笑ってから目を閉じると、チューされる体制をとってドキドキしながら待っていた。




