第10話 尊さに溺れるサトシ先生
美柑はソファに座りながら、大学の講義の内容をノートパソコンにまとめていた。
そのとき……
「ただいまー……」
玄関のドアが開く音と同時に、サトシが帰ってきた。
「おかえりなさーい。もしかして、ひなのお迎えに行っちゃってた? ごめんねー。今日はわたしがお迎えしちゃった」
「いやいや、ひな画伯の“今日の作品”を見せてもらうのが日課になりつつあるから、足が勝手に保育園に向いただけ」
サトシはにこりと笑って靴を脱ぐと、真っ直ぐにひなのもとへ向かった。
「ひなー! パパ帰ってきたよ〜! ただいまのチューは?」
「パパー! チュー!」
娘に抱きつかれ、顔中にちゅっちゅとキスされながら、完全にデレモードに突入するサトシ。
「ううっ、尊い……尊すぎる……」
「ちょ、鼻の下伸びすぎじゃない? できればチュッチュする前に、うがい手洗いをしてよね」
美柑が笑いながらキッチンに立つと、サトシはすっと彼女の背後に回り、ぴとっと背中にくっついた。
「……ねぇ」
「ん?」
「がんばった。今日、めちゃくちゃがんばった。だから……」
「だから?」
「なでなでして。あと、褒めて。『おかえり』って言って。できればおやつ付きで」
美柑はくすっと笑いながら、火を止めてふり返った。
「ふふ……サトシ先生、学校ではクールな顔してるくせに、うちでは甘えん坊さんだもんねー」
「外では、威厳ある教師としての顔を守ってるから……その反動が……。お願い、家では先生って呼ばないで」
「だよねー。先生ってストレス半端ないからね、おつかれさま。がんばったね。えらいえらい。ヨシヨシ……」
美柑は、37歳男の頭をなでなでした。
それだけで、サトシの顔がとろけていった。
完全に“犬”だ。
「やばい、もう一生ついていきたい……」
「いや、すでに夫婦だから」
「ありがたい……ありがたい……ありがたみ……」
「語彙力が消えてるよ。もう、わかったから。先にお風呂入ってきて」
「はい、今からこの家の湯船に最も敬意を払って浸かってまいります……」
そう言いながら、スーツを脱ぎ、歩いた先で靴下を脱ぎ、ずるずると洗面所へと向かうサトシだった。
その背中を見ながら、美柑はふっと微笑んだ。
(歩いた通りに脱皮していく……。犯人だったら、手掛かり残して速攻捕まるタイプね)
サトシは、学校では“クールな伝説教師”。
しかし、家では、“ひなと美柑に甘えるだけの男”だ。
そんなギャップ全開なサトシ先生の一日が、今日も無事に終わろうとしていた。
風呂場には、ひなも一緒にいた。
「パパ〜、アヒルさん、いっしょ、お風呂、アヒルさんいっしょ〜!」
「はいはい、ただ今そちらに参ります……」
湯気が立ちこめるバスルームに、ほのぼのした親子の声が響いた。
陽菜1歳半。
ママに似たのか、言葉を覚えるのが早いおしゃまさんだ。
今日はママではなく、パパと一緒のお風呂タイム。
すでに浴槽の中は、アヒル・じょうろ・バケツ・ペンギンと謎の動物園状態になっていた。
サトシは浴槽にちゃぽんと入りながら、娘と向き合って座った。
「いや〜、このひとときのために働いてるって言っても過言じゃないなぁ……」
「パパ、おしごと、がんばった?」
「うん。こはるちゃんにドア激突されてもがんばったよ」
「それ、なに〜?」
「いいんだ、ひなにはわからなくていい……。それより、ひな、ちゃんとあったまって。風邪ひくとママが悲しむぞ〜」
ひなは、サトシの言葉を聞いているのかいないのか、ふふーん♪と鼻歌まじりでアヒルをぷかぷかさせていた。
その無邪気な笑顔を見ているだけで、サトシの心は癒やされていた。
そして、
……事件は突然、起きた。
「パパー?」
「ん?」
「ママとけっこんしてくれて、ありがとー♡」
「……っ!」
サトシの脳内に鐘の音が鳴った。
式を挙げた教会の鐘に似ていた。
(……ッッッッ!!!)
「……ひな、大きくなったら、パパとけっこんするー♡」
「うわぁあああああああああああああああああああ!!!」
あまりの破壊力に、サトシの理性が吹っ飛んだ。
そのまま背後にのけぞって、ドボン!と浴槽に沈んだ!
ぷくぷくぷくぷく……!!(※湯の中)
「パ、パパー!? おさかになったー!? ……ママ―! パパ、おさかなになったぁ!」
脱衣所にいた美柑は、「おさかな?」と、不吉な予感がした。
慌てて扉を開け、湯船で気絶して沈んだサトシの頭をガシッとつかんで引き上げた。
「サトシ!? なにしてんの!? 溺れてるじゃん!!」
「……っっ、み、美柑……おれ……もうダメかと思った……。理性が……理性が……」
「どういう状況!? いや、意味わかんないから!」
「聞いて……ひなが……ひなが今、『パパと結婚する』って……!」
「え、ひな、言ったの?」
「うん♡ けっこんする〜! パパすきー!」
「……」
「……」
ふたりの大人、顔を見合わせてニヤけが止まらない。
「……ねえ、美柑。おれ、幸せすぎて逆に死ぬかもしれない……」
「生きろ!! まだ子育ては、道半ばだ!」
それから数分後――
バスタオルに包まれてリビングに戻ったサトシ先生は、今宵も改めて決意した。
「この命、娘と妻のために尽くす」
「嬉しいけど、ほどほどにして」




