第二話 ヨハン、大学に行く(二)
今からちょうど五十年前、東京都内の「鳴城学苑高校」と「獅賀教育学院」というふたつの私立高校が合併して、花東京市美空が丘に「鳴城獅賀大学」とその高等部が新設された。
常識や偏差値にとらわれない、非常にユニークにしてレベルの高い教育方針で知られ、多方面に独創的かつ唯一無二の卒業生を輩出している。そして、ついに本年。大学創立五十周年を記念して、生命科学に基づいた「魔法学」を専門とする、世界でも初となる「魔法学部」が設立されたのである。
「はあ……立派な学校よねえ」
「うん……荘厳な雰囲気だね」
ニナとヨハンは静かに自転車を降り、「鳴城獅賀大学」と記された正門を見上げてつぶやいた。
彼らの地元にある名門、ベルリン・フンボルト大学に比べれば、この学校の歴史はその半分にも満たない。だが二人は、この正門が醸し出す独特の佇まいに圧倒されていた。
「そろそろ行こうか。魔法学部の校舎はあっちだよ」
タケルの声に、少々呆然としていた二人はハッと我に返った。
「うん、わかった。行こ、ニナ」
「ねえ、タケルはこの大学のこと、くわしいの?」
「ううん。じつはぼくも、ここに来るのは受験の時以来だから」
三人は自転車を駐輪場に停めると、手にしていた入学案内や学内のマップを頼りに、魔法学部のある校舎へと向かった。
一旦学内に入ってしまうと、あちらこちらで学生たちがごく普通のキャンパスライフを送っているのがわかる。今は春休みにあたるため、その数はまばらではあったが。
鳴城獅賀大学には文学部、経済学部、法学部、商学部、理工学部および各大学院が存在する。ここに、今年から新たに魔法学部が開設されるのだ。
「ねえタケル、これが新設の『魔法学部』なんだよね?」
「そうだよ。今年完成したばかりなんだから」
「うーん、とてもそうは見えないけど」
ヨハンとニナがそう思うのも無理はない。彼らが足を踏み入れた魔法学部の校舎は完全な木造建築で、屋根から外壁から、それこそ柱の一本に至るまでそのすべてが、数百年は経過していそうな古めかしい造りだったからである。
「魔法学部設立は、大学創立五十周年の記念事業だからね。この校舎は設計から建築まで、すべて鳴城獅賀大の卒業生だけで取り仕切ったらしいよ。オンボロに見えるけど、ちゃんと中身には最新鋭の技術が使われてるんだって」
「へえ、そうなんだ!」
「なんたって、世界初の魔法学部だからね。有名なテーマパークを手掛けたデザイナーが、魔法っぽい雰囲気作りに一役買ってるみたい」
「それじゃ、この校舎自体が遊園地のアトラクションみたいなものってこと? ずいぶん手が込んでるのね!」
「ぼくは、その方針に賛成だな。魔法って、わりと雰囲気が大事だからさ」
「そうなの? いつも、その場のノリで適当に使ってるように見えるけど」
やがて、いつものように口論を始めた二人を、諭すようにタケルは言った。
「ほら、魔法学部の事務室はこっちだって。行くよ?」
コンコン
「失礼します。どなたかいらっしゃいませんか?」
タケルたちは薄暗い校舎の中、「魔法学部事務室」と書かれたドアをノックした。この部屋も、なかなかに厳めしく冷えびえとした空気を漂わせている。
「返事がないね」
「留守かな?」
「そんなわけないでしょ。今日、ここに来いって連絡があったのよね?」
「――――ようこそいらっしゃいました」
「わあっ!」
三人はいきなり背後から声をかけられ、悲鳴を上げた。いつの間にか後ろに立っていたその男性の存在に、まったく気づかなかったのだ。
「どうかなさいましたか?」
「いやあの、び、び、びっくりしちゃって」
「お待ちしておりました、ヨハン教授。私、魔法学部の事務室長を務めております、愛工一朗と申します」
その男は、長身にして面長。四十代くらいか。ギョロっとした目が、なんとも特徴的だった。オーダーメイドと思しきダークスーツをピシッと着こなしており、その物腰といい話し方といい、かなり慇懃かつ厳格な印象を受ける。
愛工室長がドアを開け、三人を事務室内に通した。中には、職員の姿はだれもいなかった。
「時間どおりでございましたね、教授」
「どうも」
(ねえ、約束の時間って何時だったの?)
ニナはヨハンに、ひそひそ声で尋ねた。
(たしか、十時だったかな)
(……って、もう三十分も過ぎてるじゃない!)
腕時計を確認しながら、ニナは少々強めに言った。
「いえ、お約束の前後二時間以内であれば、基本的に問題はございませんので」
(見かけによらず、ずいぶん時間にアバウトな人ねえ)
「ところでヨハン教授、日本には昨日到着されたばかりとか。お疲れではありませんか?」
愛工室長は三人を応接用のソファに案内し、慣れた手つきでお茶を出した。
「いえ、大丈夫です。……あの、ご存じだったんですか?」
「ええ、昨夜のニュースで拝見しましたから。ご活躍でしたね、ヨハン教授」
昨日の東京国際クルーズターミナルでの泥棒騒動は、やはりこの愛工室長に知られていた。大学のほうにも、おそらく伝わっているとみて間違いないだろう。ヨハンは苦笑いを浮かべつつも、軽くため息をついた。
「しかし、ドイツからはすべて船旅で来られたのでしょう? 期間もさることながら、旅費のほうもかなりかさんだのでは?」
「ああ、それがですね。今回の旅は、ほとんどお金かかってないんですよ」
「と言いますと?」
「あの、じつはこの猫、妖魔人の魔導猫としてわりと有名人でしてね。日本に行くなら、ぜひウチの船に乗ってほしいっていう申し出がたくさんあって。いっぱい乗り継いできちゃったから、ずいぶん時間もかかっちゃったんですけど」
ヨハンに代わって、ずっとこの旅に随行してきたニナが答えた。彼らの日本への旅路は、その距離と時間に比例してかなり楽しいものだったことが推察できる。
「それはそれは。いつか私も、そんな優雅な旅を満喫したいものです」
表情を変えないまま、愛工室長は優しい口調で言った。少々不気味な外見だが、人当たりのいい性格らしい。こうしてヨハンたちは、これからの大学生活に必要な事務手続きを、滞りなく進めていった。
続く