第二話 ヨハン、大学に行く(一)
「へー、この自転車で行くの? タケル」
「そう。これ、ヨハン専用に先週買ったばかりなんだ」
ヨハンとニナが、花東京市のタケルの家にやって来た翌朝、彼らはさっそく大学へ行くことにした。もちろん、入学式や授業が始まる日程はもう少し先なのだが、魔法学部で教鞭をとることになるヨハンのために、さまざまな手続きや打ち合わせが大学の事務局で用意されているからだ。
「わお、かわいい自転車ね! ……ねえ、この黒いの、なに?」
赤い自転車の傍にしゃがみこんだニナは、中心部付近に取りつけられている見慣れぬ装置を指さしながら、タケルにたずねた。
「ああ、これはバッテリーとモーターだよ」
「えっ? これって電動自転車なの?」
「そうだよ、電動アシスト自転車ね」
「電動アシスト自転車?」
「うん。あくまで自分の足でペダルを漕ぐタイプで、このモーターは一定のスピードに達するまで補助するだけなんだ」
「ふうん。なんだか中途半端ね。漕ぐんなら漕ぐ。漕がないなら漕がない。どっちかでいい気がするけど」
「そうかな? すごく楽だし、日本ではわりと人気なんだけど……こういう自転車、ドイツにはないの?」
「見たことないわね。ねえ、ヨハン?」
「ないね。っていうかこれだと、ハンドルにもペダルにも届かないよ?」
「そりゃそうでしょ。キミは、こ・こ!」
自転車のサドルにまたがったまま、手足をぷらぷらさせているヨハンを抱き上げると、タケルはそのまま彼を前方に移動させた。
「前カゴの中?」
「そう。それで、ぼくかニナがこの自転車を漕いで大学に通うってわけ」
「なるほどね。でもさ――」
ヨハンは籐製のカゴの中ですっくと立ち上がり、軽く呪文を詠唱すると、そのまま自転車を走らせはじめた。自転車はふらつくこともなく、タケルとニナのまわりをくるっと一周した。
「ほら。こうやって念動魔法を使えば、ぼくひとりだけでも走れるけど?」
「いやいや、さすがにこの状態で無人の自転車が街中走ってると、みんなびっくりしちゃうから。それはやめとこう、ヨハン」
法的に言えば、動物を自転車に乗せて走ること自体はとくに違反ではない。ただし、前カゴにいる動物だけで道路を走行する自転車を発見した警察官がその事態をどう判断するかは未知数である。
「まあいいか。来日したばかりで、警察に通報されてもめんどくさいしね」
「ところでタケル、私たちの通う大学はどこにあるの?」
「美空が丘ってとこ。ここからなら自転車でせいぜい十二、三分くらいかな」
鳴城獅賀大学の魔法学部キャンパスがある美空が丘は、花東京市の北部にかけて位置する住宅街だ。タケルの実家がある田儂からだと、大学に直で通える公共交通機関は乗り合いバスくらいしかない。だが通勤通学ラッシュ時にはかなり込み合うし、到着時間も読みづらい。小さな魔導猫であるヨハンにとって、自転車はもっとも通勤しやすい手段であろう。
「それじゃ、そろそろ行きましょっか?」
「オッケー。ヨハンの自転車は、ニナが運転して。ぼくは、自分ので行くから」
「よぉし、Lass uns gehen !(じゃあ行こっか!)」
「五百円」
ニナが、ぼそっとつぶやいた。
「わあっ! キレイ! ニナ、これがぼくが見たかった日本の桜だよ!」
自転車の前カゴの中で立ち上がったヨハンは、道沿いに咲く桜並木に感嘆の声を上げた。時期的には満開を若干過ぎてはいたが、朝のそよ風に揺れるその咲きっぷりは見事なものだった。
「ホント! 最高ね、ヨハン」
「うん! 想像してた以上だよ、これは。ああ、またひとつ夢が叶っちゃったな」
二人は自転車を止めて、しばし桜の花に見惚れていた。興奮気味のヨハンとニナに、タケルは不思議そうに話しかけた。
「でもさ、たしかベルリンにも桜ってなかったっけ? ぼく、昔見たような覚えがあるけど」
「うん、マウアー・パークの桜並木とかね。たしか、日本の人たちの協力で植樹されたのよね?」
戦争の象徴として、ドイツ国民の古傷であった「ベルリンの壁」。その跡地付近には、日本のテレビ局が中心となって呼びかけた募金によって、今や数千本の桜が植えられているという。そして春には、多くの観光客を集めた「花見」イベントも開催されるとか。
「そうさ。あれもたしかに立派だけど、やっぱり本場のソメイヨシノにはかなわないよ! なんていうか、花の色が繊細な気がするんだ」
「そっか。ぼくも、春の桜は大好きだよヨハン。気に入ってもらえて光栄だな」
「日本では、桜が咲くこの時期に学校が始まるんだね。まるで花々に新しい門出を祝福されてるみたいで、感動的じゃないか!」
欧米では日本と違い、秋頃から新学期となるのが一般的だ。春に咲き誇る桜は、ヨハンにとってまさしく平和と希望そのものに思えるのだろう。ニナとタケルは、ペダルを漕ぐ足に再び力を込めた。
「見えてきたよ、二人とも。あれが、鳴城獅賀大学の正門。ほら――」
先を行くタケルが、前方を指さしながら言った。ヨハンとニナは、目の前の景色に思わず息を吞んだ。
続く