第一話 ヨハン、来日する(五)
ヨハンは、ドイツ・ベルリンで造園業を営むミハエル・シュレディンガーとその妻アンナの飼い猫である、ルナの仔として誕生した。同時に四匹の兄弟も生まれたとのことだが、ヨハンはひとりだけあきらかに毛並みの異なる、一風変わった仔猫だったという。
子供のいない老夫婦にとって猫たちとの暮らしは穏やかにして、ごくありふれた日常だった。
だがヨハンが三歳くらいのとき、異変が起きる。幼児並みに知能が高くなった彼は、やがて人間の言葉を口にするようになったのだ。ちなみに、彼が最初に話した言葉は「おなかへった。なんかない?」である。
「かなりびっくりしただろうね、ミハエルさん」
「まあふつうは、自分の方がおかしくなったかと思うよな」
当時、カール・ローゼンクランツ博士の屋敷に出入りする腕利きの植木職人でもあったミハエルは、信頼する博士にヨハンの検査を依頼した。
その結果、ヨハンは世界中で発見されつつあった妖魔人の一種「魔導猫」であることが判明したのだという。
「フェアリアンって言えばさ……」
「キースくんみたいなエルフね。それからドワーフとかノーム。あとはコボルトやリザードマンみたいな亜人種も発見されたことがあるみたい。でも、ヨハンみたいに外見が完全に猫っていうのは初めてで、ものすっごくめずらしかったの」
「ルナっていう母猫は?」
「一応検査したらしいけど、ふつうの猫だったって。ヨハンはたぶん、ルナが産んだんじゃなくて、『マグラドゴアの災厄』によって異世界からやって来て、そのまままぎれ込んじゃったのかも。ルナもほかの兄弟猫たちも、今はもうこの世にはいないわ」
「それからどうなった?」
ヨハンが五歳のときに、すでに高齢であったアンナとミハエルが相次いで死去。ヨハンは、シュレディンガー夫妻がもっとも懇意にしており、事情も理解していたカール・ローゼンクランツ博士に引き取られて、同居するようになった。
そして数年後。カール博士らの尽力により、ヨハンが高い知能と社会性を持っていることが公的に証明された。やがてドイツ連邦政府から人間と同等の権利を持つことを認められるとともに、すべての人語を解するフェアリアンたちに人権を保障する、通称「ヨハン・シュレディンガー法」が制定されたのである。
「ちょうどそのころね、私が生まれたのは。ヨハンが七歳くらいのときかな」
「じゃあ、二人は……」
「うーん、ちょっと年の離れた兄妹って感じね」
その後も、ヨハンの知能はぐんぐんと飛躍的に上昇。ついには、弱冠十歳にしてベルリン・フンボルト大学への入学を果たした。
「十歳! やっぱ、とんでもない天才じゃん!」
「そうだよね。魔法も、ちょうどそのころに?」
「そうよ。おじいちゃんの下で知識と魔法を学んで、十五年くらいかかって魔法心理学で博士号を取った上に、熟練魔導師の称号を認められたのよ」
ニナの話に、キースとタケルは思わず絶句した。十歳でドイツの一流国立大学に入ったこともすごいが、その後の研究と修行にかかった時間の方が断然長いのだ。
魔導猫としての素養があるとはいえ、それを一匹の猫が成し遂げたことに、二人は言いようのない尊敬の念を抱いた。
「ところで、ヨハンがシュレディンガー姓を名乗ったのはなんで? ローゼンクランツ博士の名前でもよかった気がするけど」
「それはね。ミハエルさんが亡くなった直後、彼の遺書が見つかったのよ。ヨハンに残した手紙ね」
その遺書には、カール・ローゼンクランツ博士への感謝の意と、ヨハンに対する思いを込めた言葉が記されていたという。
《――ヨハン、私はお前が最初に言葉を話したときから、ただの猫だと思ったことは一度もない。お前は、生涯子どもを持てなかった私とアンナの間に、きっと神様が授けてくださった、たった一人の息子だ》
《お前は賢い子だ。その能力を生かして、きっと人々の役に立てるときが訪れると思う。もし将来、法律が変わって、国がお前を人間と認めてくれる日が来たなら、どうぞ『シュレディンガー』の名前を使っておくれ》
《しがない町の植木屋にすぎなかったこの私が胸を張って自慢できる息子として、『ヨハン・シュレディンガー』という一人の人間として、これからも立派に人生を歩んでいってくれることを、私は心から願っている――》
「……ってね。そんなわけでヨハンは、猫であることを忘れないようにミドルネームの『Katze』と、ミハエルさんの気持ちを心に刻むために『Schrödinger』というファミリーネームの両方を、自分の名前につけたのよ」
ニナの話は、ここで終わった。タケルはしばらく黙ったまま、フロントガラスの向こうを眺めていた。だが、やがて隣の席から鼻を啜るような声が聞こえてきて、彼はびっくりして右を見た。
「キース? ……もしかして、泣いてるの?」
「だってよぉ。これすっげえいい話じゃん!」
運転しながらキースは、涙ぐむどころか大号泣していた。タケルとニナは、そんなキースを見て可笑しいというより、心に小さな火が灯ったような気がした。
「……なあに? もう着いた?」
そのとき、前肢で目をこすりながら、眠たそうな声でヨハンが言った。花東京市が近づくにつれ、車の外はいつの間にか夜の景色へと変わっていた。
続く