第一話 ヨハン、来日する(三)
「ちょっと待って! 返して、ぼくらのカメラ!」
ヨハンは大声を上げて、二人の男を呼び止めようとした。小さな猫のわりに、ヨハンの声はロビー内に響き渡った。しかし男たちは足を止めようともせず、音と光でその存在を主張し続けている魔法のカメラをバッグの中にムリヤリ押し込んで、足早に駆け出した。
「カメラを盗みやがったのはあの野郎か! ふざけやがって!」
「どうする? キース」
「とっ捕まえるに決まってんだろ? タケル、行くぞっ!」
「うんっ!」
互いに声を掛け合い、二人組の外国人の泥棒を追いかけようとするキースとタケル。しかし、乗客たちや迎えの人々でごった返したロビーの中では、なかなか前に進むことができない。
「すっ、すみません、ちょっと……」
「ああっ! もう、どいてくれよ!」
「急いで! 逃げられちゃうよ、ニナっ!」
ヨハンの声に反応して、ニナはすばやくトランクからなにやら細長い箱のようなものを取り出して開けた。そこに入っていたのは、交響楽団の指揮者が持っているような、いわゆる指揮棒だった。
「ヨハン! Alles gut(準備いいよ!)」
タクトを手にして戦闘態勢になったニナは、目を閉じて呪文の詠唱をはじめた。そして鋭い棒の先をヨハンの方に振りかざしながら叫んだ。
「――――瞬速魔法!」
その掛け声とともに、ヨハンの身体が忽然と消えた。だがその瞬間、彼は逃げ出した犯人たちの目の前に現れたのである。
「ヨハン!」
「すげえ! これがガチの魔法なのか?」
タケルとキースは、目の前で繰り広げられる即席の魔法実演に心を奪われた。まさにこれは、その名の通りまばたきするほどの一瞬で高速移動するという魔法だ。
「逃がさないよキミたち! 今すぐカメラを返してくれれば危害は加えないけど。さ、どうする?」
両肢を目いっぱい広げて、通せんぼするヨハン。外国人の男たちは、目の前に急に出現した黒白猫(しかも流暢に日本語をしゃべる)に大いに狼狽した。
「Get out of the way !(どきやがれっ!)」
男の一人が、カバンを振り下ろしてヨハンに叩きつけようとした。しかしヨハンは軽く身をひるがえすと、前肢を突き出してつぎなる呪文を唱えた。
「やれやれ、多少手荒なことされても覚悟の上だね……。いくぞ、竜巻魔法!」
今度は、ヨハンの両前肢から暴風が巻き起こった。足元をすくわれ、そのまま旋毛風に煽られた二人の男は、激しく転げまわりながら元のロビーへと押し返されていったのである。
「Wow!」
「Shit!」
大の男二人がなすすべもないほどの強力な突風が吹きすさんでいるにもかかわらず、不思議なことにその被害をこうむっているのは当の犯人たちだけだった。このロビー内にいる人々は何の影響を受けるでもなく、固唾を飲んでその様子を見守っている。
「ふふ。どうやらヨハン、『防壁魔法』を併用してるみたいね。さっすが♪」
「防壁魔法って、周りの人を巻き込まないようにってこと? ニナ」
「うん。日本に来て早々、強力な魔法で被害を出すわけにはいかないもんね」
「なるほどな。やるなヨハン教授! 冴えてるぜ!」
そう言われればたしかに、うっすらと光る透明な防護壁が、竜巻の周りを包み込んでいるのが見える。
タケルとキースは、ニナの解説を驚きと感心を持って聞いていた。現代社会における魔法の使用には、かならず大きな義務と責任が伴う。そのことを、魔法学部の新入生の二人は早くも目撃したということだ。
「さあて、おバカな泥棒さんたち。そろそろ懲りてくれた? ……って、もう聞こえてないかな?」
二本足で悠然と歩いてきたヨハンは、大ダメージを受けて倒れたままの二人組に話しかけた。
「U……Ummm……」
だがそのうちの一人が、頭に手を当てながらゆっくりと体を起こして周囲を見回した。どうやら意識を取り戻したらしい。やがてその男はすばやく立ち上がると、近くにいた唯一の女性であるニナに飛びかかった。
「God damn !」
「ニ、ニナっ!」
「!」
ニナは間一髪で男の攻撃をかわすとともに、その身体に触れるか触れないかの距離で、いなすような動きを見せた。その直後、男の身体は大きく宙を舞い、そのまま床に叩きつけられたのだ。今度こそ、犯人の男は完全にノックアウトされてしまった。
「無事でよかった……。すごいよ、ニナ!」
「あのぅニナさん、今の魔法はいったい?」
唖然としたままのタケルとキースに、ニナは微笑みながら言葉を返した。
「ううん。これは、合気道よ」
仁和・ローゼンクランツは、故郷のベルリンでは日本人の母親の指導のもと本格的に合気道を修行しており、若くして三段の腕前を誇る強者だ。
するとつぎの瞬間、二人の魔法使いの人並外れた活躍を讃える拍手と歓声が沸き起こったのである。
「やーやーやー、どーもどーも、はいはいはい。……あ、サイン? いいよー!」
人々の注目を一身に集めて、すっかり有頂天になったヨハンであった。
「……ったくもう、すーぐ調子に乗るんだから」
続く