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第二話 ヨハン、大学に行く(四)

「あーん」 パクッ もぐもぐ


 ヨハンはカツ丼ひと切れとご飯を割り箸でつまむと、そのまま大きく開けた口の中に放り込んで咀嚼(そしゃく)した。


「…………うーん、ウマいっ!」


 隣の席についていたキースは、その様子をなんとも興味深げに眺めていた。小さく短い猫の肢で、いったいどうやって割り箸を使うのかと思ったが、ヨハンはちゃんとその指で二本の割り箸を握り、器用にカツ丼を口に運んでいる。これまでに、よほど練習してきたのだろうか。


「なあに? キース」


「いや、すげえ上手っすね、箸の使い方」


「そりゃそうさ、なんと言ってもここは『お箸の国』の日本だもん。箸なんて最低限のマナーでしょ」


 ヨハンはテーブルの上に胡坐(あぐら)をかいて、どんぶりを抱えたままカツ丼をかきこんでいた。正直マナー以前の問題であったが、椅子に座るとテーブルに届かないのでそこは致し方ない。


「気に入ったみたいだね、カツ丼」


「もちろんさ、タケル! 想像以上だね。どうだい、このジューシーなロース肉とサックサクに揚げた衣の絶妙なハーモニー! これを甘辛く煮込んでから卵で閉じるなんて、まさに食の発明というほかないね! こんなご馳走が五百円(ワンコイン)で食べられるんだから、学生食堂は最高だよ。そこへ行くと我が国(ドイツ)ときたら……」


 そう言うと、ヨハンはそのまま黙ってしまった。


「なによ、ドイツ料理がなんだっていうの?」


「いや、決して不味(まず)いとは言わないよ? けどさ、ちょっぴり華やかさに欠けるというか、気が利いてないというかさ」


 口を尖らせるニナに、ヨハンは持論を展開しはじめた。


「色づかいは地味だし、味も平凡(シンプル)でありきたり。なにより、食を楽しもうっていう心が乏しいよね」


「ずいぶんね、ヨハン」


「それにさ、なにかっていうと酸っぱいキャベツとヴルストじゃん? それが毎日だと、正直言って飽きちゃうよ」


「酸っぱいキャベツ?」


「ザワークラウトよ。塩漬けしたキャベツね」


「ヴルストってのは?」


「ソーセージのこと。おいしいじゃないの!」


 ヨハンはため息をつきながら続けた。


「以前、ぼくがまだ大学生のときにそんな話をしてたら、同級生(クラスメイト)のひとりが自分ちの夕食に誘ってくれたんだ。なんでも、その子のお母さんは有名な伝統的家庭料理の研究家なんだって」


「へえ、いいじゃないすか!」


「喜び勇んで、ぼくは彼の家に招待されたさ。ああ、今日はいったいどんな未知の味に出会えるのかってね。わくわくして食卓で待っていたぼくのところに『お待ちどうさま! さあ、どうぞ召し上がれ』って、お母さんが嬉々としてキッチンから運んできたのは、大皿いっぱいに盛られた酸っぱいキャベツとヴルスト――――」


 ヨハンはうんざりしたようにそこまで話したら、付け合わせの沢庵(たくあん)をポリポリとかじった。


「だいたいさ、ベルリン名物の『アイスバイン』? あれっていったいどんな料理かと思ったら、豚のすね肉の煮込みだって! どうせなら、もうちょっといいとこ煮込めっつーの」


「……あのさヨハン、もうそのへんにしといたら?」


 タケルは、ニナのほうを見ながら言った。ヒートアップしてきたヨハンの口ぶりに腹を立てているのではと思ったが、その表情は意外にもそれほどではなかった。彼女にも、ドイツ料理には思うところがあるのだろうか。



「それにしても、ヨハン教授は本当に日本が大好きなんすね。俺らとしちゃ、光栄なことっすけど」


 麦茶のコップを傾けながら、キースが言った。それにタケルが続ける。


「ねえ、ヨハンはほかの国には行ったことあるの?」


「いやあ、()()()()()で陸続きの欧州(ヨーロッパ)しか経験はないんだ。でも昔から、日本には別格に興味があったね」


 その「とある事情」というのはもちろん、高所恐怖症のために飛行機に乗れないことである。


「日本のどこがそんなにいいんすか?」


「やっぱり、独特の文化と歴史かな。たとえば『漢字』ひとつとってみても……」


「漢字?」


「それ自体は中国から入ってきたものだけどさ、日本語にうまくアレンジされてるよね。ほら、『(やす)』いって字があるでしょ?」


「うん」


「それにもうひとつ漢字をくっつけて『安全』、『安心』、そして『安価』みたいな単語ができてるじゃない。ぼくはね、『安』って字から作り出されるこの三つの言葉が、現代日本の本質を的確に表してるって考察してるんだ」


「なるほど! それで、いまちょうど『円安』なんすね」


「そして、その三つをバランスよく兼ね備えているのが、この五百円のカツ丼ってわけ。いい材料と適切な調理方法によって安全。食べたら美味しくて安心。そして価格も安い、と。わかる?」


「……なんだかよくわかんないけど、なんとなくわかった気がするわ、ヨハン」


 かくして、ヨハン・K・シュレディンガー教授の来日初となる講義は、昼下がりの学生食堂のテーブルで行われたのだった。




「ところでニナさん。それ、うまそうなイチゴっすね」


「ああこれ? 定食にデザートで付いてたの。こういうとこ、やっぱり気が利いてるわね」


 そう言ってニナは真っ赤に熟した大きなイチゴを一個、割り箸でつまもうとしたが、つかみ損ねてポロっと落としてしまった。


「あっ、いけない! テーブルの下に転がっちゃった」


「はあ……。ニナったら、箸づかいがまだまだだねえ」


「うるさいなあ、もう」


「拾って食べる?」


「食べないわよ! 知らずに踏んだら大変でしょ?」


 ニナは屈みこんで、テーブルの下に頭を入れた。足元にイチゴは見あたらない。しかしさらに目を凝らすと、そこにはなにかぼうっと光るものが立っていた。



「ミィ!」 はくっ はくはく


「えっ?」


 そのときニナは、両手に持ったイチゴにおいしそうにかぶりついていた「それ」と目が合った。




続く



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