第〇話 ぼくとキースと魔導猫
あれは、ぼくが小学三年生の初夏のことだ。ぼくのクラスに、季節外れの転校生がやって来た。
彼をはじめて見た朝のことを、いまでもよく覚えている。日傘を差した和服姿の上品なお母さんに連れられて、ランドセルを背負った男の子がキョロキョロと周りを見回しながら校門に立っていた。
『キース・天ヶ宮・ドラゴンボルト』
教室がざわついたのは、先生が黒板に書いた彼の長ったらしい名前のせいだけではない。金髪に碧い瞳、高級磁器のような真白い肌に端正な顔立ち。そして、なによりもぼくらの目を引いたのは――まっすぐ横に長く伸びた両耳だった。
「はいはいはい、しーずーかーにー! ……えーっ、ご覧のとおりキースくんは、ハーフエルフの妖魔人です。お父さまが、異世界出身のエルフの方だそうですね」
担任の田中先生がそう言うと、彼は振り向いてうなずいた。一回息を飲み込むと、その少年は頭を下げながら大きな声で名乗った。
「ええーっとぉ、オレのっ、いや、ぼくの名前はキース・天ヶ宮・ドラゴンボルトです! よ、よろしくお願いしますっ!」
二、三十年ほど前から世界中で起こりはじめた、「マグラドゴアの災厄」と呼ばれる原因不明の異変。そのはじまりは「アルヴァルシア」という名の、異形の魔物が闊歩し、剣と魔法が支配する幻想境だ。
すなわち現実とは異なる時間、異なる文明、異なる環境から次元の裂け目に落ちた人たちが転移してくるという現象である。
エルフにドワーフ、ノーム。そのほかにもさまざまな、外見も性質も能力も人間とは遥かにかけ離れた種族の来訪者たち。彼らは「妖魔人」、もしくは「フェアリアン」と呼ばれた。夢物語やおとぎ話の中に登場するような、人ではない人たちが一人、また一人。ぼくらの住むこの世界に、不定期に現れるようになったのだ。
ハイエルフの聖騎士であったというキースの父親もまた、期せずしてアルヴァルシアからこの地に転移してきたのち、日本人女性と結ばれて一人息子を生んだ。
でもその頃は、ぼくの住んでいる花東京市においてでさえも、妖魔人はきわめて希少な存在だった。実際、ハーフエルフのキースがぼくの通う小学校に入学できるように法整備されるまで、何年もかかったという。
キースは両耳だけでなくその性格も、かなり派手で尖がったモノを持っていた。はじめこそおとなしくしてはいたが、転校初日から一週間もたたないうちに上級生に目をつけられた。
ある日彼は、そんな悪ガキたちから寄ってたかってキツい洗礼を受けた。
「――ねえキミ、大丈夫?」
放課後のだれもいない階段の踊り場で、数人から袋叩きにあって大の字に伸びていたキースに、ぼくは静かに声をかけた。
「……っせぇな。こんな傷、なんでもねえよ」
頬と腹を手で押さえながらゆっくりと体を起こした彼に、ぼくは懐からハンカチを出して渡してやった。
「なんだよ。おまえも、このエルフの耳がめずらしいとかキモチわりいとか思ってんだろ?」
「べつに? そんなの、ちっともめずらしくないけど」
「あ?」
「ぼくは、言葉を話せて魔法が使える『猫』を知ってるよ。むしろ、わりとフツーだよ、キミは」
「なんだって?」
「妖魔人の猫だよ。猫の魔導師だから、『魔導猫』だね」
「ちょ、ウソだろ?」
ぼくの話に大いに興味を持ったキースに、いつも定期入れの中に大切にしまっている一枚の写真を見せてあげた。そこには、かわいい黒白猫を抱っこしている幼い頃のぼくが写っている。
「ぼくの家族、昔ドイツに住んでたことがあってさ。そのときお世話になっていた家で、その猫といっしょに暮らしてたんだ」
魔法のかかったカメラで撮ったその写真は、まるで携帯の動画ファイルのように、被写体の声や動きまでもが当時のまま忠実に再生されるのだった。
《ほら、カメラ見てー! 1、2、3、Käse!》
その猫の発する掛け声とともに、目の前に本物のでっかいチーズが出現してびっくりしているぼくと、そんな魔法をかけていたずらっぽく笑う猫が写っていた。
「ホントだ……。な、なあ、おま――」
「タケル。ぼくは司馬武悠。キミとおんなじ組だよ? キース」
「そっか、悪いな。……なあ、タケル! オレもいつか、この猫に会えるかな?」
「うん、会えるよ。たぶんね」
「マジで? すっ、すげえ!」
ぼくは右手を差し出してキースの手を握ると、地べたに座り込んでいた彼を立ち上がらせた。イジメを受けてふてくされていた彼の表情はすっかり晴れやかになって、人懐っこく笑った。その口元から、牙のような八重歯がキラリと光った。
ぼくも、そんなキースの笑顔を見てうれしくなった。
「猫の名は、ヨハン。
――――ヨハン・K・シュレディンガー」
その日から、ぼくとキースは親友同士になった。
そして、あれから十年。この春から大学生になるぼくは今日、魔導猫のヨハンと再会する。
第一話に続く