第5話 企みの時間
□森精種領グランテ=ペテス高山区画
見渡す限り、草の海が揺れていた。高原の風は冷たく、草木を撫でて遥か向こうへと流れていく。低木と高茎草が風に靡き、まるで大地そのものが呼吸をしているかのように波打っていた。朝霧がその上を淡く覆い、辺り一面を銀灰の薄膜が包んでいる。
その草原の果てから、天を衝くように幾重もの山が連なっていた。尾根は鋭く、岩肌は苔むしながらも峻厳を宿し、稜線の白銀は陽光を弾いて燦然と輝いていた。
そこにあるのは、大陸を東西に分かつ巨大な背骨──ペテス山脈である。
幾千年を越えてもその深部は未だ生物の侵入を許さぬ未踏の場所として聖域と化している。
元は翔翼種の領土である。風を読み、空を掴む彼らの種族は、ペテスの風と共に在り、その山嶺を『羽根のゆりかご』と呼んだという。だが、時は移ろう。今やその一部──グランテ連峰──は、森精種の支配下にある。
グランテ連峰は、現在森精種の手によりグランテ=ペテス高山区画として再整備されていた。山肌に祈祷の術で整備された段丘と、水脈を導いた水路が広がり、その全てが森精種の民に自然の恩寵をもたらしている。
現在、森精種領であるこの高原は静けさに包まれていた。
この高原から少しばかり離れ、山を下った場所。密林が広がるその場所に二人の人影があった。
「相当大変だったらしい」
密林の中を歩くのは仮面の男。その傍に天女の如き美貌を併せ持つ付き人がいた。
仮面の男は周りを見渡しながら呟く。
本来ならば草木が生い茂り満足に歩くことすらままならない。しかし今、密林は切り開かれ、簡単に歩けるようになっていた。切り開かれている、とは言いつつ、開拓されたわけではない。
まるで巨大生物同士が争ったあとのように、木々はなぎ倒され、下草は踏みつぶされ、結果的に切り開けれた大地になっていただけだ。
地面には巨大生物の足跡らしき窪み。その大きさは仮面の男を覆い隠し、傍に控える女性をも包み込むほどだった。なぎ倒されていない木々を見てみると鋭い爪で引っかかれたような跡がそこら中に残っている。
もし人間がこの餌食となってしまえば一瞬で絶命してしまうだろう。
ここ、森精種領グランテ=ペテス高山区画の大部分を占める密林には、世界の覇権を争う12の種族を殺すことができるような、そのような獰猛な獣たちが跋扈していた。
獣たちは日々、住処や餌を求めて争い合う。
その度に密林は傷つくが、絶え間ない弱肉強食の連鎖によって供給される死肉の栄養やペテス山脈から流れ込む水脈に含まれる豊富な栄養によって幾たびも再生する。獣たちに栄養を与え、住処を提供し、争いを受け入れる。
グランテ=ペテス高山区画をよく知る森精種の研究者は、この付近一帯の密林を母なる大地と敬愛を込めて呼んでいる。しかしそのような尊敬の念を抱かれることとは対照的に、森精種がこの地に訪れることはほぼ無い。
これには幾つかの理由がある。
まず森精種の国家が保有する領土は12の国家の中でも最大。これだけの国土面積があれば、わざわざ辺境のグランテ=ペテス高山区画まで訪れずとも、豊かな自然を巡り合うことができる。
そして政治的な理由
元は翔翼種の領土ということもあり、その扱いは慎重になる。
端的に換言するのならば、ここは国境付近なのだ。
森精種と翔翼種は嫌煙の仲というわけでもないのだが、翔翼種が神聖視するこの大地を森精種が好き勝手にするのをよく思わない者もいる。
攻撃される可能性があるのだ。
故に立ち寄らない。
例外は研究者や政府直轄の者たちだけ。
ただ、それら二つの理由よりももっと単純で、さらに確信に迫る原因がある。
それはこの密林が《《ただただ危険だから》》という理由だ。
森精種でさえも気を抜けば殺されるこの環境を冒険しようとする者はいない。昼も夜も、文字通り四六時中襲われ続ける環境なのだ。とても精神が持たないだろう。
加えて森精種の『祈祷』は長時間、連続の使用に向いていない。
『祈祷』を失えば森精種など人類種より少し強い程度の身体能力。昼夜の連戦には耐えられない。
以上の理由もあり、森精種はこの大地に立ち入らない。
しかし今、密林に広がる争った跡には奇妙な点が含まれていた。
折れた木々、窪みだらけの地面、それらをよく見てみると靴で踏みつけた後のような足跡や、《《弾痕》》が残されている。
生物同士の争いではない。
確かに猛獣以外の何かが争っていた。
「お、こりゃひどくやられたねぇ、モグ」
仮面の男は切り開かれた密林を歩き、やがて終着点に辿り着く。
今まで歩いていてきた場所よりもさらに開けた空間。
木々がなぎ倒され、下草が僅かに風で揺れる場所。
その中心。
巨大な大蛇が頭部を切り取られ、息絶えていた。
そして転がる大蛇の頭部のすぐ傍。
倒木に座る一人の男がいた。
仮面の男に『モグ』と呼ばれたその男はゆっくりと声のした方向を見る。
羽織っていた黒いコートは傷だらけで、薄汚れていた。
その粗暴さがありながらも整った顔は人間そのものであったが、どこか異質な気配を漂わせていた。厚手の服では隠せぬほど、人間にしては大きな身体。まるで人工物かのような均整の取れた身体のバランス。
その正体を示すかのように、モグの顔には傷が出来ていた。
深くぱっくりと切られた跡が残っている。普通の人間ならば頬からは血が流れ、咥内が見えていてもおかしくはない。しかしモグの頬からは一切の血液が流れださず、それどころか、ぱっくりと割れた頬の切り傷の中からは陽光を反射する金属が姿を見せていた。
男は人類種ではない。
機械であった。
適応進化型強化戦闘用機械人形である。
「マスター。至急の修理を要請する」
僅かにノイズが混じる声で仮面の男に要望を述べる。
仮面の男は僅かに笑って答えた。
「了解。もう準備はできているよ。戦闘訓練ごくろうさま」
モグは進化し続ける。永遠に、適応し続ける。
この密林での戦闘もモグの強化のため。
「じゃあ、行こうか」
仮面の男はモグの傍に行ってから、優雅にその場から立ち去った。