夜の女王
六角形の巣の奥に、小瓶にはおさまりきらないほどの蜂蜜がたっぷり入っている。
色々あったものの当初の目的はクイーンビーの蜂蜜の採取である。
十分すぎるほどの──想定以上の量の蜂蜜が、目の前にある。
マユラは手をのばすと、巣に触れてみる。
すると──。
ふと、景色が変わっていくような──錯覚がある。
◆
『……私の赤ちゃん、私の……』
ふらふらと、森に入ってくる女性の姿。目深にフードを被って足を引きずっている。逃亡者の姿だ。
その手には、布にくるまれた赤子が抱えられている。
彼女は──王都劇場で売れっ子の女優だった。名前は、ティターニア。それは芸名だ。彼女には本名がない。孤児だったのだ。
幼いころに旅芸人に拾われて、演劇を学んだ。ティターニアという名前は、演劇の中に出てくる妖精の女王から名付けられた。
旅芸人の座長はティターニアの才能を見抜き、王都の小劇場で働かせるようになった。
美しいティターニアはすぐに頭角を現して、名門と言われる王都劇場からスカウトされた。
ティターニアの演じる『夜の女王の夢』は王都劇場でも評判の演目だった。
ティターニアを手に入れたいと望む者は多かった。
だが、ティターニアは誰にも心を開かなかった。
彼女を育てた父のような存在の旅芸人の座長が、いつでもティターニアを見張っていた。
『お前は俺が育てた。俺のために踊れ、俺のために歌え。金を稼げ!』
稼いだ金の大半が、彼の──義父の酒代へと消えた。彼は旅芸人をやめて、ティターニアの稼いだ金で遊んで暮らすようになっていたのだ。
恋人など作ることはとても許されない。お前は孤児だ。貴族がお前の相手をするわけがない。
どうせ捨てられる。遊ばれて捨てられるのだと──何度も父代わりの男に繰り返し言われ続けていた。
そんなティターニアの元に熱心に通う男がいた。
ティターニアの美しさに酔いしれ、現状を憂い、そして。
『僕が君を必ず守るよ。大丈夫だ、なんとかしよう』
男はティターニアの義父に手切れ金を渡した。
そして義父に二度とティターニアには近づかないという契約書を書かせたのである。
ティターニアは喜んだ。そして、幸せを手に入れたと浮かれた。
男は──レスター・キリア伯爵という。ティターニアははじめての恋人に夢中になった。
恋にのぼせて仕事を疎かにし、ティターニアの女優としての評判は落ちた。
劇場にはティターニアの居場所がなくなった。ティターニアが赤子を身籠ると、レスター伯爵は彼女を連れてキリア伯爵家に戻った。
だがティターニアは知らなかった。
義父の言う通りだったのだ。ティターニアは孤児。親が誰かもわからない。
そんな女をキリア伯爵は妻になどできない。その上、キリア伯爵の家には正妻がいて、息子までいた。
『王都で仕事をしていると思っていたのに、女を作って遊んでいたなんて……』
『すまない。だが、ティターニアの腹には子供がいる。私は彼女を愛しているんだ』
『……ええ、そうですか。わかりました』
伯爵の妻はティターニアを妾として家に置くことを認めた。
表向きはにこやかに、ティターニアに対して優しくしていた彼女だが、心の奥底ではティターニアを心底恨んでいたのだろう。
『──あの女の食事に、これを混ぜて。軍隊蜂の毒で作ってもらった、子殺しの薬よ』
ティターニアが臨月を迎えるころ、そんな話を彼女が侍女としているのを偶然耳にした。
背筋に恐怖が走った。その時、ティターニアの腹に激しい痛みが走った。
腹の中の子が、ティターニアの恐怖を感じ取ったように、なんとしても生まれてこようとしているのだとティターニアは思った。この子は、強い子だと。
それからすぐに、子が生まれた。
伯爵は子が生まれたことを喜んだ。伯爵の息子も「妹だね」と言って、素直に嬉しがっていた。
彼は母がティターニアを受け入れたと思い込んでいた。確かに正妻は、皆の前では笑顔を絶やさなかった。
『おめでとう。可愛い女の子ね』
そう言って、ティターニアの手を握ってくれたぐらいだ。
軋むほどの強い力で。手が、折れるのではないかというぐらいに。
ティターニアは子を抱えて、密やかに伯爵家を出た。正妻がティターニアや赤子を生かしておくとは思えなかった。
この子を守ることができるのは自分だけだ。
王都に向かおう。そう思い赤子を抱えて伯爵家からできるだけ離れようと歩き続けるティターニアの前に現れたのは、義父だった。
『子を産んだのか、ティターニア。どれ、見せて見ろ』
『私には近づかないと約束したはず!』
『あんな紙切れ一枚何になる。伯爵の子か? それはいい。お前の子だ、演技を仕込めば金になる。お前は顔がいいからな、女優として使えんのなら、売り飛ばせばいい。子を使い、伯爵を脅してやってもいいな。ほら、赤子をよこせ!』
『来ないで、近づかないで!』
ティターニアは、義父の前から逃げ出した。
赤子を抱えて、駆ける。ひたすらに、駆け続ける。
怒鳴り声をあげながら、義父が追いかけてくる。掴まれば赤子を奪われてしまう。
あの男はおかしい。
『私の赤ちゃん、私が守る、私が、守ってあげるから……!』
まだ、名前も決めていない。伯爵は正妻に遠慮をして、自分で名付けようとしなかった。
『来ないで! こないでっ!』
どこまでも、義父は追ってくる。ティターニアは死に物狂いで、森の中に駆けこんだ。
子を産んだばかりの体に、走り続ける負担は大きい。息が切れる。苦しい。死ぬかもしれない。
でも、あの男に捕まれば、死ぬのと同じ。
だから──。
ティターニアはとうとう、森の奥で赤子を抱きしめながら、力尽きたように膝をつく。
ブンブンと──蜂の羽音が、遠く響いて聞こえる。
『お願い。私は食べていい。だから、この子は。この子は殺さないで。ねぇ、魔物たち。私の声が届いているのなら、あの男を殺して。私を食べて。私の血肉あなたたちにあげる。私があなたたちの女王になって──たくさん、子を産んであげる!』
軍隊蜂に囲まれたティターニアは、全盛期の彼女を彷彿とさせる高らかな声で言う。
それは、舞台の上で夜の女王を演じる、ティターニアの姿だった。
◆
長い夢を、見ていたようだ。
「マユラ!」
そう、名前を呼ぶ声が聞こえて、マユラはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……あれ、私……」
「大丈夫か、マユラ。どうした? 何かあったのか?」
兄やレオナード、そしてアルヴィレイスが心配そうにマユラの周りを取り囲んでいる。
マユラは驚いたように目を見開き、アルヴィレイスの顔をまじまじと見つめた。




