はじめての旅に乾杯
マユラは石像の顔や首、胸板や肩などをぺたぺた触った。
片手に抱えられた師匠が『離せ馬鹿者、離せ、潰れる』と文句を言っている。
マユラの腕をぱしっと掴んだ兄が、ぐいっとマユラに体を近づけてくる。
「マユラ、たとえ石像であっても男の体に不用意に触れるな。お前が触れていいのは私だけだ。私の鍛え抜かれた均整のとれた体になら、どれほどでも触れていいぞ」
「お兄様、私は別に男性の体に触りたいわけではなく」
「ユリシーズよりは俺のほうが鍛え抜かれている気がするが……マユラ、触るか、腹筋などを。俺はいつでも、大丈夫だ……あぁ、大丈夫、大丈夫だとも」
「レオナードさん、のぼせましたか? 大丈夫ですか?」
石像からもう声はしない。長時間話せないと言っていたために、石像はただの石像に戻ってしまったのだろう。
ともかく──この石像は、クイーンビーの石化毒によって石化をしている人間だ。
「お兄様、レオナードさん、石像の男性に見覚えはありませんか?」
「しらんな」
「石像の顔だちについて見分けるのは難しいな。石、という感じだ。いや、ヒト、という感じだろうか」
『常日頃他人をどう見分けているのだ、呪い男は』
「見分けはついている、と、思う、多分」
兄は他人に興味がなく、レオナードはそもそも他者を大きなくくりで区別するところのある人だ。
マユラも石像の男性には見覚えがない。
「とりあえず、出ますね。のぼせてしまいそうですし」
「それは……大変だな、マユラ。もう少しここにいていい」
「何かありますか、何故ですか?」
「のぼせたお前を介抱したい」
『なんと……欲に忠実な男なんだ、お前の兄は。肉欲の権化か?』
「お兄様は自分に正直なのです。ともかく、私は出ますね。のぼせたら、このあとのご飯とお酒が美味しくいただけなくなってしまいますし」
マユラはざばざばとお湯をかきわけて、浴槽から出た。
背後でレオナードが「ま、待ってくれ……ユリシーズ、見るな。駄目だ」「妹の裸体を見ることに何の問題が?」などと言って揉めている。
裸体ではない。湯浴み着を着ている。
多少薄手だが、体はきちんと隠れているのだから。
兄も兄だが、レオナードも少し過保護すぎる。いい人だから、ありがたいけれど──などと思いながら、マユラは脱衣所に戻り着替えをすませた。
兄のくれた錬金術師の服から、ゆったりとした就寝用にも街歩き用にも使用できるクリーム色の飾り気のないワンピースに着替える。
足元に小さな花の刺繍が入っているのも可愛い。こちらも兄がくれたものだ。
アンナが「マユラちゃん、これね、寝間着にするのよ。可愛いから、そのまま着て歩けるし、すごくいいと思うわ」と言っていた。
やや首元や肩が大胆に開いているのが気になるが、「オフショルダーは乙女の嗜みよ」とも、アンナは言っていた。
「おふしょる……だー……?」
きっとなんらかのオシャレな言葉なのだろう。
マユラは服装に疎い。そもそもオシャレ全般に疎いので、なんのことやらだ。
髪をごしごし拭いて外に出ると、既にユリシーズとレオナードが一階の食堂に座って待っていた。
宿の宿泊客なのか、それとも村の者なのか。ともかく二人とも女性たちに囲まれている。
兄は腕を組んで視線を逸らし一言も話していないが、レオナードはにこやかに対応をしていた。
マユラはまぁいいかと思いながら、ぎゅっと絞って湯布でくるんだ師匠と共にカウンター席に向かう。
受付をしていた女将が食堂も担当をしているらしく、カウンター奥のキッチンで忙しなく働いている。
「師匠、寒くないですか?」
『熱さも寒さも感じない。痛みもないと言っただろう。触覚は失われている』
「じゃあ、撫でても抓ってもなにも感じないのですね」
『視覚や聴覚はあるからな。何をされているのかは理解できる』
ちなみに味覚もないのだろう。食事もできないのだから。
それはすごく寂しいことだろうなと考えながら、マユラはメニューを眺めた。
石像の人については気になるものの、クイーンビーの石化を今すぐ解決できるわけでもないので、焦る必要はない。
体が石になってしまうだけで(だけ、というのもあんまりだが)命を落としてしまうわけではないのだ。
「マユラ、何故そちらに座る?」
「マユラ、すまない。何か不快にさせてしまっただろうか」
背後から声がする。兄がマユラの髪に触れて、濡れた髪をぶわっと乾かしてくれる。
ついでに師匠の体も乾かした。
一瞬にしてマユラと師匠はふわふわになる。マユラは髪質のせいで、師匠はぬいぐるみだからだ。
マユラの左右に、ユリシーズとレオナードも座った。
背後から突き刺さるような女性たちの視線を感じる。
「ありがとうございます、お兄様!」
マユラは極力大きな声で言った。どちらが兄とは言及していないので、こうして言っておけば、二人とも兄だと思ってもらえるだろう。
背後から感じる視線が消えていく。二人の兄と旅をしている妹というのは、どちらかといえば快く受け入れられるもの──だろう。たぶん。
「イネスさん、注文いいですか?」
「もちろんいいよ。何を食べるんだい?」
「チーズパンと、ごろごろ野菜スープのセット。それから、羊肉のパスタと、子羊のグリル。葡萄酒を三つ。適当に頼んでしまいましたけれど、他に食べたいものはありますか?」
「私は、チーズと葡萄酒だけでいい」
「俺はマユラが頼んでくれたものを食べるよ」
『これから寝るだけだというのに、どれだけ食うのか』
「せっかくの旅なのですよ、師匠。色々食べたいじゃないですか」
ややって、頼んだ注文が届けられる。
三つのグラスに葡萄酒がそそがれている。マユラはグラスを手にしてしげしげと眺めて、口元をほころばせた。
「お酒ですね。自由にお酒を飲める、まさに自由」
「いくらでも飲むといい。食事の支払いは私がしよう。……マユラ、私はお前を甘やかしたい。駄目か」
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
心なししょんぼりされながらそんなことを言われては、断ることはできない。
「じゃあ、次の街では俺が支払う。ユリシーズ、それでいいか?」
「構わん」
ほかほかと湯気をあげているチーズパンや、芋やトマトがたっぷり入ったスープ、羊肉の挽肉のパスタや、柔らかそうな子羊のグリルがカウンターテーブルにずらりと並んだ。
ユリシーズの前には一口大に切られたチーズの盛り合わせが置かれている。
「ええと、では、はじめての旅に乾杯でもしましょうか」
「あぁ。マユラ、私とお前の愛に」
「あー……そういう感じか? それならば、俺と、マユラの出会いに」
『何もめでたいことなどないだろう。すぐに乾杯をしたがるのが下等な人間丸出しだ、マユラ』
「はじめての旅に。乾杯です」
マユラはもう一度乾杯の理由を言い直して、師匠の額をつつきながら、グラスを軽く持ち上げた。




