ありがとうとさようなら
氷の槍で貫かれたリヴァイアサンが、ゆっくりと海に沈んでいく。
醒めた眼差しでそれを眺める兄の元へ、マユラは急いだ。
「お兄様、危ない!」
海水の温度が、ユリシーズの魔法によるものなのか、それとも別の何かなのかはわからないが、急降下したような肌寒さを感じる。
凍てつく氷の海に突き落とされたようだった。
海底から、まるでイソギンチャクのように何本もの太い触腕が、ユリシーズめがけてのびる。
海全体が、生き物になってしまったような気がした。
海底から黒々としたなにかがこちらをのぞいている。その何かが、マユラたちを飲み込もうとしているのだ。
「燃えろ!」
炎の聖杯の炎が燃えあがり、ユリシーズを捕食しようとする触腕を焼き尽くした。
レオナードが海中でくるりと一回転をして、触腕の中心へと真っ直ぐに向かっていく。
触腕は沈んで行くリヴァイアサンの亡骸にぐるぐると巻き付いて、海底に引きずり込んだ。
「食べているのですか……?」
『あの幽霊の言っていたことは、私の研究と符合している。魔物とは魔素が負の感情をもったもの。だとしたら、姿形は違えどもその成り立ちは同じ。なるほど、死んだ魔物を食うことで、更に己の魔素量を増やして、より強力な魔物になるということか』
「感心している場合じゃありませんよ、師匠! あ、アンナさんが、大変なことに……!」
ゆっくりと浮上してくる触腕の中央に、女の青白い顔がある。
それは、家よりも大きな女の──アンナの顔だ。
アンナの顔からは何本もの触腕がはえており、そのなかのいくつかの先端が、黒々とした狼の顔を形作っている。
「……気分が悪い」
「お兄様、大丈夫ですか?」
青ざめる兄を、マユラは覗き込む。ユリシーズは口元に手を当てて、今にも吐きそうな様子だ。
『さては、この男。幽霊が苦手なのだな』
訳知り顔で、師匠が言う。
マユラは、兄を馬鹿にしたら後が怖いので、慌ててそれを否定した。
「そんなことはありません。お兄様は偉大なるレイクフィアの魔導師です。今までだって、何体ものゴースト系魔物を倒したのですよ」
「そうだ……私に苦手なものなどない。しかし気色が悪い。視界の暴力に過ぎる。おぞましい」
ユリシーズは海底からせりあがってくる巨大な女の顔から視線をそらしながら、ぶつぶつ言った。
──あぁ、幽霊が苦手なのね、お兄様。
マユラは察した。同時にユリシーズがリヴァイアサンに負けそうになっていた理由も察した。
多分、戦っている最中に近海をうろつくスキュラに出会ってしまったのだろう。
そして動揺をして、スキュラの呪いに飲まれた。
そうでなければ、兄がリヴァイアサンに後れをとることなどありはしないのだから。
さきほど抱きしめられたとき、兄の体温は妙に熱かった。それに錯乱もしていた。
おそらく、高熱が出ている。高熱が出ていても平然としている──風を装えるのだから、たいした精神の強さだ。
「どんな姿でも魔物は魔物だ。失せろ!」
レオナードは寒気がするほどの恐ろしい姿をした魔物にも焦ることなく、剣をふりあげる。
矢継ぎ早に放たれる触腕や、噛みつこうとしてくる黒い猟犬を切り裂いて、女の顔面へと剣を振りおろした。
レオナードの剣の刀身が、振り下ろした瞬間に長く伸びたような気がした。
それは、水をも切り裂く衝撃波だ。
女の顔面が、すっぱりと二つに切り裂かれる。
切り裂かれて割れた顔面の隙間から、無数の子供の手のようなものがのびる。
それが組み合わさり再びその顔面が一つになろうとしている。
マユラの頭の中に、不意に何かの景色が流れ込んでくる。
──それは、暗闇だ。
暗闇の中で、暖かな何かを感じている。
歌声が聞える。アンナの声だ。彼女が歌っている。その声が、温もりが、暖かさが、大好きだと思う。
「……っ、駄目!」
気づいてしまった。
理解してしまった。
魔物は──アンナの体、だけではない。アンナはおそらく、身籠もっていた。
彼女は気づいていなかったのかもしれない。まだそれは形を為していない、人になる前の魂のようなもの。
けれど──そこには感情がある。
怒りが、憎しみが。大切なものを奪われた、わけがわからないままに冷たい海の底に沈められた、混乱と悲しみが。
「助けなきゃ……!」
咄嗟に叫んだ言葉が正しいのかどうか、自分でもわからない。
けれどマユラは再生しようとしている、最早スキュラと呼ぶべきかどうかさえわからない魔物に向かい、炎の聖杯を掲げて突き進む。
「マユラ……」
「マユラ!」
『やれ、マユラ!』
ユリシーズの氷魔法が、スキュラの触腕を氷漬けにする。
それを、レオナードの剣が砕き割った。
マユラは師匠の声に背中を押されるように、割れた氷の中で苦痛の叫び声をあげているスキュラに、聖杯の炎を向ける。
「焼き尽くせ、聖なる炎よ!」
咆哮をあげる炎竜の、炎の息のように、最大級の炎を放つ聖杯が燃えるように熱くなる。
手のひらが焼ける。ひりひりと、ずきずきと痛んだ。
マユラは聖杯を掴み、放たれる炎の衝撃に、熱さに耐える。
だって──燃やされる、アンナは。そして小さな命は、もっと痛いのだ。
スキュラのなれの果ては、聖なる炎に包まれる。
海の中で燃え上がる火の玉は、不思議と美しかった。
炎の中から、助けを求めるように小さな手が伸びる。
その手が、マユラに向かって別れを告げるように、手を振った。
「あ、が、と……」
たどたどしい声が、マユラの耳に響く。マユラはなんだか泣きたくなった。
それはアンナの声だったのかもしれないし、小さな命の声だったのかもしれない。
炎の塊が、海底へと沈んで行く。最後の灯りが消えるように、ゆっくりと、小さく、見えなくなった。
「……無事か、マユラ!」
『マユラ、聖杯を離せ! 割れるぞ!』
レオナードがマユラの体を抱える。
師匠の言葉に我にかえって、マユラは聖杯から手を離した。
全ての力を使い離した炎の聖杯に、ぴしりぴしりとひびが入る。
炎の聖杯が砕け散る。衝撃に、海中が激しく揺れる。弾き飛ばされそうになる体を、レオナードが守ってくれる。
気づけば、マユラたちは氷の檻に包まれていた。
氷の檻は、冷凍マグロの上に立つユリシーズによって海面へと運ばれていく。
兄が自分を見捨てなかったことに驚きながら、マユラは師匠の小さな体を抱きしめた。




