マユラと幽霊
湯あみをすませたマユラは(師匠とルージュを一緒に洗おうとしたら、二人から断固拒否された)、二階にある寝室のベッドのシーツをひっぺがして、凍えずの毛布を敷いた。
シーツを変えて新しい敷物を敷いただけで、ベッドは──マユラの気持ち的には、新品のようになった。
レイクフィア家では物置暮らし、アルティナ家では屋根裏暮らしが板についていたマユラにとって、ベッドがあるだけで十分に恵まれていると感じる。
それが過去ここに住んでいた浮気呪殺男女の置き土産だろうと、上等である。
ただ、シーツは洗っておきたい。気分的に。
洗う時間さえないぐらいに引っ越してから妙に忙しい。
とはいえ、商売をしていくにあたって、忙しいというのはありがたいことだ。
それにしても──グウェルのことは心配だ。
スキュラを討伐しなくては、グウェルの病は癒えない。熱さましはただの対症療法にしかすぎない。
熱をさげても、痛みをとっても、その原因をどうにかしないことには、きっとゆるゆるとやつれて命を失ってしまうだろう。
そうなったらニーナはどれほど悲しむだろう。エナはどれほど辛いだろう。
それを考えるだけで、心臓の奥がひやりと冷たくなるような気がした。
助けたい。そのためには、スキュラについて調べなくては。
きっとなにかできるはず。けれどそのためには、疲れた体を休めないといけない。
ワーウルフに傷をつけられて、かなり出血をした。回復のための休息は必要だ。
少し休めばすぐに元気になる己の頑丈さに感謝しながら、マユラは師匠とルージュと共に眠りについた。
親を失ったばかりのルージュは寂しいのか、マユラに小さな体を寄せてきた。
師匠はそのふわふわの体を抱いて眠っても、特に文句も言わなかった。
するりと眠りについたマユラは──風の音で目を覚ました。
ぅ、う、うう──。
ぅう、ううう──。
風の音にしてはか細い、背筋がぞわりとするような、何とも言えない音である。
それがどこからともなく響いてくる。
まだ夜は明けていない。うっすらと開いた瞳にとびこんできたのは、すぴすぴ眠るルージュの可愛い顔と、すうすう眠る師匠の、ぴこぴこ動く耳だった。
「……気のせい?」
小さく呟く。一瞬音が途切れた気がした。けれど、耳を澄ますとやはり『ぅうう』という、風の強い日に窓の隙間から吹き込む隙間風のような奇妙な音がする。
『なにごとだ』
師匠たちを起こさないようにベッドから降りようとしたが、師匠に話しかけられてマユラはぴたりと動きをとめた。
『朝、ではないな』
ルージュも目覚めてしまったらしく、大きく羽を広げる。
「……ごめんなさい、起こしてしまいましたね。妙な音がして」
『確かにな。なんだこの、不愉快な──声は』
「声、ですか。確かに女性の声のように聞こえます。師匠はずっとこの家にいたのでしょう? 今まで聞いたことはなかったのですか?」
『知らんな』
マユラは師匠を抱きあげて、ルージュを頭に乗せて、ベッドサイドに置いてある杖を手にすると、そろりと部屋を出た。
『声を確認に行くのか? 少しは怖がるなどとという可愛げが、お前にはないのか』
「何の声かはわかりませんが、確認しないことには。毎夜、うう、うう言われたら、安眠妨害ですし」
『お前は私のことも怖がっていなかったな。なんというか、特殊な女だ』
「褒めてくれていますか? ありがとうございます。でも……今あまり、怖いと思っていないのは、師匠とルージュが一緒にいてくれるからです」
『……な、なにを言う』
「本音です」
師匠は、照れ屋だ。褒められ慣れていないのかもしれない。
褒められ慣れていないのはマユラも同じなので、その気持ちは少しわかる気がした。
ぱたぱたと階段を降りて、一階に向かう。
もしかしたら泥棒の類かもしれないと思い、マユラは杖を持つ手に力を込めた。
もし泥棒だとしたら、音をたてずに近づいて杖で殴り掛かる必要がある。
シダールラムも倒したマユラだ。腕力には自信がある。
マユラにとって、今のところ杖は鈍器だった。
「……!?」
声のする方に足をすすめていくと、キッチンにたどりついた。
キッチンの隅に、黒い塊がある。
よくよく目を凝らすと、それは女性だった。
黒い服を着た女性が、キッチンの隅にうずくまって「うぅううう」と声をあげながら、しくしく泣いている。
他人の家にあがりこんでしくしく泣く女性を見たのは、当然だがこれがはじめてである。
泥棒ではなさそうだ。
うずくまっているせいで顔は見えないが、ドレスのような黒い服を着たふわふわの銀の髪の女性だ。その体は細く小さい。泣き声は、女性のものにしてはずいぶんと、低い。
それは風の音にも、獣の遠吠えにも似ていた。
「だ、誰ですか。どうして泣いているのですか。どうしました?」
ともかく泣いている女性を放っておけない。
マユラが近づいていくと、その黒い塊はがばっと顔をあげた。
白い顔に、そこだけ穴が開いたような真っ黒の瞳。
その瞳からは、赤い血のような涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「魔物……!?」
咄嗟に杖を構える。何かしらの魔物の類に違いない。
魔物ならば倒さなくてはいけない。この形状の魔物は、不浄のもの。ゴーストやアンデッド。
師匠の時には残念だと言われた神聖魔法が有効だ。師匠は大魔導師だったので歯が立たなかったが、今回は効くかもしれない。
マユラは杖を構える。
魔法の発動のために精神を集中する。魔力が指先に集まってくるのを感じる。
「不浄のもの、可哀想ですが払います!」
そう宣言して呪文を唱えようとした。
「ひどい、ひどい、ひどぃいいいいっ!」
その途端、広くも狭くもないキッチンに、つんざくような女の泣き声が響き渡った。




