2:非対称な勝敗
国立公文書館の地下、広大な書庫のさらに下に、その部屋はあった。
部屋を一見して、まず持つ印象は”書斎”だろう。壁の四面の殆どは本棚で占められ、古風な飾りが施された洋書から日本の新しめな文庫まで様々の本がそれを埋め尽くしている。決して狭くはないが、四方を本で囲まれているせいか、実際の広さよりも部屋は狭く感じられる。その圧迫感を、天井から吊るされたアンティーク趣味の照明が、暖かさのある明かりで中和していた。
部屋の中央には木製の正方形のテーブルがあり、それもまたアンティーク趣味の装飾が施されている。テーブルの表面には格子模様が刻まれていた。椅子に座る切れ長の目の男がその模様を指の腹で確かめる。男には、その格子模様が何を意味するのかわからなかった。
男がテーブルに落としていた目線を上げると、向かいには黒縁の眼鏡をかけた女が座っていた。女は湯気の立つティーカップを口元へ持っていく。一口飲んで、吐いた息が湯気を巻き上げて、彼女の眼鏡の下半分を曇らせる。どうやら彼女は自分の淹れた紅茶の味に満足したようだった。
「それで」
ティーカップから口を離して、天口ユキは問いかけた。
「暦史書管理機構の仕事には、もう慣れましたか?」
テーブルに置かれた自分の分の紅茶をちらと見て、シン・ズーシュエンはそれには手を付けず、皿に盛られた茶菓子に手を伸ばす。紅茶が苦手、というわけではなく、彼はとても猫舌だったからだ。
平日の夜八時過ぎに彼がこの部屋に居るのは何故かというと、5日ほど前に、今日この時間、この部屋に来るように天口に言われたからだった。シンはこの部屋に来たことがなかったため実際には公文書館入口で合流したのだが、部屋に案内されてからも、シンはこの部屋で何をするために呼ばれたのか教えられていなかった。
手に取った一口サイズのクッキーを口に放り込み、もう一度紅茶の湯気の具合をチラ見してから答える。
「慣れたというか…諜報部なんて物騒な名前の部署だから、もっとこうスパイ映画みたいな仕事を想像してたんだが…」
「そうではなかったと?」
「部屋の掃除やら資料の整理やら、雑用みたいな仕事ばっかりで飽き飽きしてるとこだ」
シンはテーブルに頬杖をつく。同時に、紅茶の湯気がダイレクトに顔を襲い、たまらずシンは着込んでいた偽の警官制服の袖口で顔を拭う。その様子を見ていた天口は可笑しそうに少し笑って、二人の間に置かれた皿からマドレーヌを一つ取った。
「部署の性質的にそれらの雑務を外部の人間には委託できませんからね…でも、給料は良いでしょう?」
「まあな。それに最近は、駅のロッカーに預けられた情報の入った荷物の回収だとか、監視カメラに外部コンソール挿して別の映像流すだとか、少しずつ仕事を任されるようになってきてる。今日の仕事もそうだな、処理班の奴らが捕物をやるみたいで、俺は周りの人払いをやってたよ」
シンは部屋の入口付近にあるコートハンガーにかけられた偽の警官帽とコートを親指で指す。
「でもその後大変だったんだ。何人か普通じゃなさそうな奴らが急に現れて…一人はバイク乗ってたな、そんで俺が慌てて止めたら、自分たちは番人だの何だのって言って確かに確認すると機構の人間らしいんだよな。結局処理班の奴らが取り押さえた標的は、その番人とかいう奴らに持ってかれたらしい」
なんだったんだ、とシンはぼやく。マドレーヌを食べ終わってナプキンで手を拭っていた天口は少し考える。
「…まあ、そういうこともありますよ。真面目に仕事をしているようで良かったです。そうでなければ、あなたを推挙した私の立場がありませんからね」
そこで天口は困ったような顔をして、「と言うか、」と言葉を続けた。
「今日のお仕事がそんなに忙しいのであれば、連絡さえくれれば別日にしてもよかったんですよ…?」
「いやいや、元々約束はしてたし、仕事がないよりか仕事があるほうがマシだ。それに、そんなに大変な用事で呼んだわけじゃないんだろう?」
天口は明らかに固まったが、シンは紅茶に手をかざして冷め加減を確かめていて気づいていない。天口はティーカップを口元へ持っていきながら、小声で「元々約束してましたもんね…うん…」と呟いたがそれもシンの耳には届いていなかった。
シンは紅茶を諦めて、背もたれに身を委ねながら問う。
「気になったんだが、こなす仕事の重要度が高くなれば、給料って上がるのか?」
「どうでしょう、諜報部の給与システムは詳しくないので断言はできませんが、十中八九そうだと思いますよ」
「ならいいんだが…というか、あんたはいくら貰ってるんだ?そもそもあんたが何処の部署に所属してるかすら知らないぞ」
あら、と意外そうに天口は目を丸くする。
「言ってませんでした?…あの時のあなたに必要でない情報だったので、話していなかったのかもしれません。私の所属は暦史書管理部、その名の通り、暦史書を守り、管理する仕事をしています。名目上は各国のアーカイヴに勤務していることになっています。主に私が勤務しているのは、ここ国立公文書館となりますが」
ほー、と興味なさそうな返事をしたシンは、ずいと身を乗り出し小声で再度質問する。
「で、幾ら貰ってるんだ」
「…機密事項なのでお答えできません」
天口はそっけなく言い放つと、すましたような顔で一口サイズクッキーをかじる。
乗り出した身を椅子へ戻したシンは納得いかない表情で顎に手をあてて考える。少しして、シンは悪いイタズラを思いついたように片眉を上げた。
「へえ。じゃあ、風の噂で聞いたんだが、十二使徒ですら閲覧を禁じられた書物が隔離されている『禁書庫』ってのがあるのはマジなのか?まさかとは思うが…あんたがそれを管理している、とか」
それを聞いた天口は、クッキーを食べるのを止めて大きくため息をついた。その反応の意味がわからないシンは訝しげな表情をするが、天口の目線から、今自分が呆れられていることを理解する。
「…真面目に仕事をしているというのは撤回します。まだまだ仕事にも慣れていないようですね。この仕事場には、簡単に人を殺し自分をも殺してしまえる”情報”がそこら中に転がっていることを理解していませんね?」
「は…そんなにヤバいこと言ったのか、俺」
「少なくとも、あなたが得ていい情報ではありません。どこで聞いたのやら…いや、言わなくていいですよ、それすらもあなたと私の命を脅かしかねない」
軽く聞いたつもりだったのが、思った以上の答えが返ってきてしまい、その物騒な言葉にシンは面食らう。
「なんだってんだ…いや、そうなると、やっぱりあんたがその管理を…」
「普通に違いますよ…公文書館勤務だって言ったじゃないですか。嘘をつく理由もありませんし、これ以上の詮索は本当に身を滅ぼしますよ。そもそもどうして知りたいのですか?まさかまたコソコソと泥棒にでも入ろうと?」
天口が睨むと、シンは何の気もないと言わんばかりに両手をあげ、降参の意を示す。
「いやいや、すまん、ついクセが出た。なにせそういう生き方しかしてこなかったモンで…そんなにヤバいんならもう聞かないよ」
本当のところは、隠している秘密なんかを一つ二つ言い当ててやって、未だに読めないこの女の鼻を明かしてやろう、などという子供じみた考えだったとは言えるはずがなかった。
天口は残りのクッキーを口へ放り込んでしまうと、茶菓子の皿と自分のティーカップを片付け始める。
「今はそれで十分です…まあ追い追い学ぶとは思いますよ。…それでは、そろそろ始めましょうか」
「ん?始めるって何をだ」
内心焦っていたシンは落ち着くためにようやく自分のティーカップを手に取り、飴色の液体に息を吹きかけているところだった。
天口が茶菓子とティーカップを片付け終わり、正方形のテーブルの下へと手を伸ばす。よく見ると、木製のテーブルは妙に厚みがあり、まるで収納スペースがあるかのようだった。
シンがとうとう紅茶に口をつけようとしたところで、天口はテーブル裏のレバーを引く。
その瞬間、ガコン!と大きな音が響き、テーブルの両サイドから引き出しのような構造が飛び出した。
「!? あつッ!!」
驚いたシンはその拍子に紅茶を一気に口に流しこんでしまい、熱さにもだえる。
ガラガラガラ…と絡繰めいた音をさせながら、両サイドから飛び出した引き出しは徐々に縦になり、様々なボードゲームの駒やカード、ダイスの入った棚へと変貌する。
シンはあ然としながらも、テーブルの格子模様がチェス盤であることに気がついた。なんとなく嫌な予感がしつつ、シンはテーブルの変形機構から天口へと目線を移す。
天口はレバーを離し、どこか得意げな表情で席に座りなおす。そして、ニヤリとしか言いようのない笑顔を、シンに向ける。
「あのときの続きですよ。今のところはあなたの一勝ですが…今日は勝ちを譲る気はありませんよ」
それからシンは夜通し、たとえ抜きに本当に朝まで、古今東西のボードゲームやカードゲームでの対戦に付き合わされた。天口ユキという女が恐ろしいほどの負けず嫌いであることを、シンは身をもって理解させられたのだ。
そしてこの会は、定期的に開催されることになる…ということを、シンはまだ知らない。