堕ちゆく日々とラムネ瓶
ふと気がつくと、私は草原に寝ていた。
眼前に広がる青空にはふわふわした白い雲がいくつか浮かんでいて、吹き抜ける風はどこからか甘い香りを運んでくる。
「気持ちいいね〜」
と、聞き慣れた鈴の音色のような声が聞こえてきた。
声のした方を見ると、日野 月夜先生が、目を瞑りこの風景に浸っていた。
瞬間、私は察する。これは夢だ。
思えばここがどこなのか検討もつかないし、そんな所に月夜先生と隣合って寝ているのは確実に現実じゃない。
......とはいえ、夢にしてはよくできている。
整った小さい鼻に、プルっとした唇。良い香りのする艶のある長い黒髪に、僅かにピンク色に染まった頬。何より素敵な大きな目は、私のことを不思議そうに見つめている。
「星見さん......何で馬乗りになってるの?」
そう聞かれた時初めて、私は月夜先生の上に乗っていることに気づいた。
何故か、いつも読んでくれる下の名前の晶じゃなくて苗字の星見で呼ぶのは気になったけど、私は体勢を変えずに答える。
「先生の顔可愛いから、しっかり見たいなって」
どうせ夢の中なんだ、いつもより素直になっても許されるだろう。
「えー、なんだか照れちゃうな」
月夜先生は「ふふ」と笑いながら、ゆっくり私の頬に真っ白な左手を伸ばす。
「この間の続き、しよっか」
「この間の......続き......?」
何の事か分からず、私が同じ言葉を聞き返す。
先生が、優しい力で私の頭を引き寄せる。
「ほら、あれだよ――」
そうして月夜先生は、私の耳元でそっと囁いた。
「――国語の補講」
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ハッと目が覚めた。
どうやら日はすっかり昇っているようで、カーテンの隙間から日差しが照りつけていた。
目線の先にはクリーム色の天井があり、湿度の高い熱気が身体を包んでいる。
何か、すごく変な夢を見ていた気がする。
手探りで頭上のスマホを探し、手に取ったソレで時間を確認した。今の時刻は『8:09』そろそろ準備し始めて学校に向かう時間だ。
気だるい身体を起こし、着替えを持って風呂場へと向かう。
頭からシャワーを浴びると、一気に目が覚めていくのを感じた。
一通り体を洗って、タオルで体を拭きながらそばにある鏡を見る。
そこには当然私が写っていて、少し不機嫌そうな顔をしていた。
いつの間にか大きくなってしまった胸を持ち上げ、その重さを感じながら吐き捨てるように呟いた。
「......こんな体になりたくなかった」
この体が嫌いだ。
今まで、大きくしようと努力した訳でもないし、むしろここに栄養を割くぐらいなら、もっと身長を伸ばして欲しかった。
そんな私の思いとは真逆に、歳をとるに連れこの2つの脂肪は膨らんだ。身長は小学生を卒業してから変わらない。
いつからか男性からの突き刺すような、舐め回すような視線が気になるようになった。そんな日々を送るにつれ、卑しい目線を送ってくる男も皆嫌いになった。
この体を羨む友達達には悪いけど、良い事なんてひとつも無い。
結構な努力して、地元ではそこそこ有名な進学校に入学した。
賢いと視線に気を使う男も多いかと思ったけれど、別にそんな事は無かった。
けど、今となってはどうでもいい。
今の私の生活には、そんなものより大事な人が居るから。
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身支度をし、家の鍵をかけて学校へ向かう。
夏休みに入って2週間ぐらいの時間が経った。
他の人達は夏を満喫している中で、私は土日を除いたほぼ毎日学校に行っている。
理由は授業の補講をするためなんだけれど、サボった事も無いし後悔もしていない。むしろ、月夜先生と会うためにわざと単位を落としていたから、思い通りにいったまである。
最初のうちこそキツかったけど、慣れてしまえば楽だ。
朝から元気に、近所の駄菓子屋ではしゃぐ子供達を見ても、もはや苛立ちではなく風情すら感じる。
......今年の春、私が2年生に上がる時。月夜先生は私たちの学校にやってきた。
前に勤めてた学校でも2年生の現代国語を担当していたらしく、そのまま私たちの学年を受け持つことになった。
一目惚れだった。初めて人を、恋愛としての意味で好きになった。
整っているけれど、どこか幼さを感じる顔。いつでも誰にでも優しく接する姿。大人ながらの包容力。すれ違う時の香り。綺麗な声......笑窪......
月夜先生のそれらを見る度、感じる度、思い返す度に私の胸は高鳴って、頬は熱くなった。
月夜先生は若いし可愛いしで、入ってきてすぐ皆からの人気者になった。
さすがに先生として、あるべき一線は守っていたけれど、それでも生徒達に親身に接する良い大人な感じがした。
だから......私個人を見て欲しくて、どうにかして対等になりたくて、色々な事をした――
伸びきっていた髪を切った。
友達は「失恋でもしたの!?」と驚いた、月夜先生も驚いていたけど「似合ってるね」と褒めてくれた。
髪を茶色に染めた。
友達は何も言わなかったけれど、少し距離を置かれた。月夜先生は「校則違反だし、本当は怒らなきゃいけないんだけど......今回は見逃しましょう。可愛いよ」と言ってくれた。
ピアスを開けた......左耳に1つ。
友達と呼んでた人達は居なくなった。生徒指導の先生にひとしきり怒られた後、月夜先生は言った「今回の事に関して、私は特に何も聞かないけれど1つだけ言わせて。晶さんが学生である以上、ある程度のルールは守らないといけない。少し窮屈かもしれないけど、きっと経験してよかったって思う時があるから」
思惑とは違った方向に進んだけど、印象には残ったみたいなので、結果は良好。先生を困らせたくは無かったので、それ以来ピアスは着けてない。
――他にも色々あるけれど、大きい変化だけでも思い返せば、たった3ヶ月で良くやったと思う。
普通の感性からすれば、きっと褒められた事ではないけど、個人的には最高の結果だ......私にはもう落ちるしか道はなかったから。
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しばらく歩いて学校に着いた。
今日もいつも通り、部活がある生徒と一部の先生以外は学校に来ては居ないみたいだ。
普段あれだけ人がいる学校が、今は自分以外誰も見当たらない。静まり返った校舎内に、自分の靴音だけがするのを聞いていると、なんとなく不思議な感じがした。
自分以外の人間が突然、世界から消えたようなそんな感覚。
事実そんな事はありえないんだけれど、窓から入ってくる涼風とこの不思議な孤独感が心地よかった。
結局誰かに会うことも無く、自分の教室の前へと来た。
引き戸を開けようとしたけれど、まだ月夜先生は来ていないみたいで、鍵がかかっている。
いつもだったら月夜先生はもう来てて、鍵も空いてるはずだけど、今日は珍しく遅れてるらしい。
数分経っても来る気配は無さそうだったので、仕方なく鍵を取りに行くことにした。
職員室の扉を開き「失礼します」と小さな声を投げかけた。
中で仕事をしていた数人の先生が私を見て、一斉に顔をしかめた。
「何の用」
と、1番近くにいた若い男の先生がぶっきらぼうに聞いてきた。
「2の1の鍵取りに来ました」
私がそう答える間、そいつは私の事を値踏みするような目で見たあとで、顎で私の隣にある鍵のかかった板を差し、私が礼を言う前に手を止めていた作業を再開した。
職員室を出ようとすると、奥で作業していた大柄の先生に「おう星見」と野太い声で呼び止められた。
その顔になんとなく見覚えがあって、少し考えた後に思い出す。ピアスの時にめちゃくちゃ怒鳴っていた生徒指導のオッサンだ。
「髪、染めてんだろ」
低い声で、脅す様にそう言った。
既に若干腹が立っていたのと、ここで怯むとこの意味の無い問答が長引くのは知っていた。
「焼けました。夏なので」
そう言って返す。
屁理屈ではあるけど、夏に入る前より髪は焼けて少し変色しているから、あながち嘘でもない。
それにこういう時のために、そこまで明るい色で染めてもないから切り抜けられる......はず。
目の前のオッサンは、しばらく私を睨んでから「夏休み終わるまでに黒染めしてこい」とだけ言って、出てけと言わんばかりに職員室の戸を開けた。
何も言わず逃げる様にそこから出ていって、少し離れた後でため息と舌打ちをした。
貰ってきた鍵で教室を開けると、個室の中で蒸されていたじっとりする熱気が、廊下に流れ込んできた。
こんなところで勉強なんて、とてもじゃないけどやってられないので、エアコンのスイッチを入れた上で教室の窓を全部開ける。
1番窓際の席に座り、外からの涼しい風で火照っていた身体を冷やしていく。あまりにも心地良いのでそのまま机に体を投げ出した。
普段は出来ない......というかやらないけど、人の目なんて気にしなくていい今なら別に良いだろう。
時計を見ると、もう開始予定の時間はとっくにすぎていた。でもまだ月夜先生が来る気配はない。
こんな時のために連絡先を交換しておきたかった......そう思いながら、滅多に通知の来ないスマホを弄る。
写真フォルダの中にいる月夜先生を見ていると、心の中の暗いものとかイライラが落ち着いていくのを感じた。
それと同時に、心が安らいでるせいか眠気まで襲ってきて、瞼がだんだん重くなる。
今の画面をを見られたら、先生はどんな反応をするだろう。嫌悪か、怒りか......もしかすると......
薄れていく意識の中で『見られたくないと思う自分』の中に、『見てほしいと思う自分』が確かに居た。
スマホを片手に寝てしまいそうになっていたその時に、遠くから早足で近づいてくるヒールの音が聞こえてきた。
廊下から響くその音に共鳴するように、私の鼓動が早くなっていく。
音は私のいる教室の前で止まり、入り口の引き戸が勢いよく開かれ、慌てた様子の月夜先生が入ってきた。
「ごめんね晶さん!遅れちゃった」
手で顔を仰ぎながら近づいてくる先生に対し「ついさっき来たとこなんで大丈夫です」と伝える。
先生がいつも通り私の向かいに椅子と机を移動させて、手に持った教材をそこに置く。
「予習してきた?」
私の目の前にプリントを並べながら、先生がそう聞いてきた。
「バッチリやって来ました」
答えながら、机にかけてあった鞄からノートを取り出して、それを渡す。
差し出されたノートを、先生が右手で受け取った。
「さすがぁ。じゃ、今日も小テストやろうか」
無言で首を縦に振り、目の前に並べられたプリント達に手をつける。
今日の内容は......今まで授業でやった小テストが2枚と漢検準2級の問題集が1枚、それと先生が作ってきた特別問題が1枚。
ざっと問題に目を通したけれど、簡単だしすぐに終わりそうだ。
問題用紙に目線を落としながら、月夜先生に尋ねた。
「そういえば、今朝ってなんで遅れたんですか?」
「ちょっとね......大人の事情ってやつかな」
少しだけバツが悪そうな声で、月夜先生がそう返した。
「どうして?」
と、今度は逆に月夜先生が聞き返してくる。
「珍しいなって思ったのと......あと、もし私か先生が遅れそうな時のために、連絡先交換したいなと思って」
「確かに珍しいかな......あと、前にも伝えたけど個人的な連絡先の交換はしません」
「どんな理由でもですか?」
「どんな理由でも。大丈夫、何かある時は学校から連絡するから」
また、良いように諭された気がしたけれど、ワガママを言いすぎるのも良くないので、黙って小テストの続きを再開する。
「それに......」
と、月夜先生が小さく呟いた。
「それに?」
私が先生の方を見て聞き返すと、先生もその大きな瞳で私を見すえて言った。
「晶さん、元々頭が良く無いわけじゃないし、あと1、2回くらい来て貰ったら、補講はもう終わりにしようかなと思ってるの」
「え......」
初耳だった。まさかこんなに早く終わるとは思ってなかった。
「嬉しくない?」
そう聞いてきた先生への、1番良い答えがすぐに見つけられない。
「その......ほとんど日課みたいなものだったから、びっくりして」
結局、本音と嘘が混じった微妙な返事をすることになった。
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果たして予想通り、大した時間がかかることも無く、小テストが全部終わった。
それら全部を纏めて「終わりました」と声をかけて先生の前に出す。
「はい、確認します」
と言って先生が右手に赤ペンを持ち、採点を始めた。
この時間が好きだ。真剣な顔の月夜先生を、私だけが間近で見ていられる。
ただ、この時間もあと数回で終わってしまうと思うと、とても名残惜しい。
せめて、今だけはじっくり堪能しよう。
それで、これからどう付き合っていくかとかはそれから考えればそれでいい。
ふと、目にかかる前髪が煩わしかったのか、月夜先生が左手でそれをかきあげる。
もちろんその動作に特別な事は無いし、月夜先生のクセではあるんだけれど......
私の目は、先生の左手薬指に嵌っている指輪を見逃さなかった。
今まで、ソレを着けていることは見たことがなかったし。本人からも周りの噂からも、月夜先生が結婚しているなんて聞いた事がなかった。
いやでも、結婚指輪とは限らないし、オシャレで着けているだけかもしれない。
ただ、オシャレ用だとすればあまりにも高価そうな物に見える。
あまりの驚きに、私の頭の中が混乱する。
ソレについて聴くべきじゃないと、心が警鐘を鳴らす。
「......月夜先生、それって結婚指輪ですか?」
結果、私の脳みそは好奇心に負けた。
先生が驚いた顔をして、自分の左手をすぐに見る。
「あ〜やば、急いでたから気づかなかった......よく気づいたね晶さん」
ずっと見てたので。なんて事は言えないし言う気にもなれなかった。
「実はね、ちょっと前に結婚......というかプロポーズされたの。詮索されるのも話題になるのも嫌だったから、誰にも伝えてないんだけどね」
「そう......だったんですか」
私の声は、自分でもわかるぐらいには震えていた。
先生が、結婚指輪の着いた左手をすっと耳元に伸ばしてきて、顔を寄せ耳元でこう言った。
「みんなには内緒ね?」
瞬間私は察する......あぁ、これが現実か。
それからの事はよく覚えていない。
ただずっと、虚ろな気分で炎天下の中帰路に就いていた。
ジリジリと照りつける太陽のせいか、胸の中を掻きむしるぐちゃぐちゃになった感情のせいか、ひたすら私は乾いていた。
気づくと、家の近所の駄菓子屋まで来ていたようで、店先に売られていた瓶ラムネが目に付いた。
代金を払って、店の前で一気にそれを流し込む。
口の中で炭酸の泡が弾け、体に悪そうな程の甘さが広がる。
嫌気がさすほど演出された爽やかさが、私の中を駆け巡った。
結局半分ほど残したソレを、目の前に建つブロック塀目掛けて思いっきり投げつけた。
ラムネ瓶は、太陽の光をキラキラ反射させながら真っ直ぐ飛んでゆき、壁と接触した瞬間に、いっそう眩しい輝きを放って弾け飛んで、やがてその場に無残な姿で散らばった。