日曜日の幻想
突き抜けて青い空、小さい雲すら浮かんでない。日の光は一直線に私の肌を焼く。ばちばちばち、腕から音が聞こえるくらい。
ぺろっとシャツの袖口をめくると、やはり日に焼けている。白と褐色のツートンカラー。ぱきっと明確な境界線。
風は、吹かない。ぬるいのさえ来てくれない。
汗が一滴、あごからぽたりと落ちて、乾いた土に吸い込まれてく。
学校は静かだった。
「教卓にイチゴジャムが塗り広げてあった」
「床にため池の藻がまき散らしてあった」
「メダカが水槽から消えて、花瓶の中から見つかった」
六月のことだ。こういう、変でほんのちょっと悪質な小事が、たくさん起こるようになった。ひとつ珍事が起きるなり、クラスは騒然となって様々な噂や憶測が飛び交いだす。やがてその記憶も薄れ始める頃にまた何かが起こるのだ。担任が職員朝会でこの話を持ち込むようになり、私のクラスは全学年の興味を引くこととなった。
ある日、私はその犯人を知ってしまった。私のクラスの人だった。
その次の日にはまた事件が発生していた。騒ぎ立てる生徒をなだめながら、担任は鋭い視線で、しかしあてもない犯人探しをやっていた。
視線、そう、そんな感じ。肌を焼く光線、迷うことなくまっすぐにやってくる日差し。
やってくるのはおまえくらいだよ、と目を細めて熱い二の腕の肌を撫ぜた。
足下を見下ろす。黒々と肥沃な土。その下に埋まってるのは、クラス全員で先週植えた、発芽もしてない種。
クラスの花壇。みんなのもの。
大切にされて嬉しいかい、とつぶやいた。かすれた声、日差しに貫かれて、はじけて消えた。
どんな子なんだろう。
ずっと、ずぅっと考えていた。
委員会の集まりがあった日曜日だった。学校の廊下を歩いていた。仕事を終えて、置き忘れた宿題を取りに教室へと向かっていたのだ。
窓の外には濃い赤紫色。じわっと太陽の名残をうつす、遠い西の空。人の声や車の音も、遠くにしか聞こえなかった。校舎の中は薄暗い。火災報知器が一つの階に二つ設置されていて、その赤い光だけ廊下に広がっている。妙に怪しい雰囲気が新鮮で、電気をつけずに足音をたてずに、ゆっくりゆっくり歩いていたのだ。
と、かすかな物音が聞こえた。机を引きずるときの耳障りな音、あれが小さく響いたのだ。控え目に、まるで誰かに気付かれるのを恐れているように。
机の音がもう一回響いて、そしてそれが私の教室から聞こえてきたのだと気付いた。微かな予感は確信へと変わった。
抜き足で引戸に近付いていく。そして引戸の窓から、教室の中を覗き込んだ。
そこは柔らかい、しかし不安定な光に満ちていた。後に気付いたことだけれど、離れた場所にある野球場の光が揺れながら差し込んでいたのだ。廊下の薄暗さも手伝って、教室の中はひどく明るく感じられた。夢の中みたい、とぼんやり思った。
ゆらゆらの光を後光のようにまとい、その人は教室の後ろの、生徒個人用の棚のところにいた。小さくうずくまっている。学生服を着ている。そして、棚の一番下の段の一つを覗き込み、何やら細工をしているようだ。そこが終わると上の段にもとりかかり、少しずつ立ち位置を右にずらしていく。全員分の棚に、なにかを押し込んでいるのだった。
しばらく見つめていたけれど、彼は集中していた。クラスメイトの視線にも全く気付かない。
普段は視界の端っこにあっても目にも留めなかった、猫背やふわふわとした髪の毛に気付く。逆三角形の目やまっすぐなまつげ、薄い唇に気付く。
揺れる光に、浮かんでは消える。ゆらゆら、ぐらぐら。
すごく、キレイだった。
今、思い返せば、一種の仲間意識だったような気がする。もちろん、そんな意識は私の自分勝手な気持ちの範囲内だったけれど。
物心付いた頃から、学校とか教室とかいう場所が好きになれなかった。人がいなければ何とも感じないけれど、何十人、何百人の人間が雑多に詰め込まれていると駄目だ。その場所はとてつもなく脅威的な装置に感じられた。渇き、とでも言えば適確だろうか、自分の水分が、がばりと吸い上げられていくような感覚があった。
笑顔をこしらえたままぐらぐらと、萎れて死んでいきそうな気がしていた。夏の終わりの向日葵に自分を喩えて。自分とは調和できない季節になって、しなびた姿でこっくりと終わりを迎える命に、どうにもできない悔しさと気持ち悪さとが込み上げた。毎年毎年、込み上げた。
そんな毎日の中で、この奇妙な事件が起こり始めたのだ。
からからに乾いた日常の隙間に、ぽつり、ぽつりと潤いの音を聞いた気がした。嫌悪感を抱いているのは、私だけじゃないのかもしれない。そんな気持ちが胸に涌いてきた。
日差しが、とぎれた。光の球を包む、薄い黒雲。やっと来る風。湿りけを帯びて。
頭上を仰ぐ。もうすぐきっと、半透明の膜を突き破る。唸り。うねり。巻いてはほどけ、厚く太く。
膝に落ちる、最後の汗。てのひらについた泥が、いびつな嘲笑を差し向ける。
一筋だけ、涙がこぼれる。
耳鳴り。止まらない。
この人と繋がりたい。ただ、そう思った。
深い渦の中に駆け出すことに、なんの不安も感じなかった。世界は光に満ちていた。
それから一ヶ月、彼と私は小石を敷き、チョークを折り、給食着をパジャマに変えた。
日曜日の夕方、あるいは珍事の騒ぎが落ち着いたほどの夜の始まり頃、私はふらりと音もなく、教室を覗きに行く。彼がいると、手招きして私を呼んでくれる。
不思議と、作業をしているときはほとんど人が来ない。彼と私の企みは守られ、私の渇きが静かに、そして確実に満たされる。私は最上の心地よさを感じていた。
もちろん、誰かに見つからないかひやひやする場面も、いくつかあった。
今日も、そんな日で。
机に乗った彼が、白熱灯を私に渡した、瞬間にぐらりと身体を傾け床に落ちてしまった。机は派手な音をたてひっくり返った。
彼はしばらく、横倒しになった椅子に身体をもたせて顔をしかめていた。大丈夫、と私が言ったのにかぶせ、廊下から足音が聞こえてきた。
「あ」
と彼は呟いたきり、てきぱきと机椅子を片付けた。右手に白熱灯と左手に私の手をとり、掃除用具入れの中に隠れ込んだ。
足音が近づき、そして、何事もなしに遠ざかっていく。
そっと外に出て、身体がほこりまみれで汚れていることに気づいた。そっと、低く笑いあった。
彼の屈託ない笑顔は、過去の私の日常を、思い起こさせる。公園のシーソーで跳びはねたり、衣料品店の服の波をくぐってはしゃいだりする、幼い私。周りの大人や子供はにこにこ笑っているのだ。
それは、あるべき居場所だった。そう思った。
掃除用具入れの中、扉から薄く光が漏れていた。そこに塵がキラキラと舞っていた。雑巾のにおいと、土と汗のにおい。密やかな二人の息遣い。
私たち、二人だけの、純化した世界。二人で築き、守っている非秩序。
――得た彼の手を、私はなかなか離せなかった。胸がきゅうとつまっていた。
しばらく手を繋いだまま座っていた。蛙の鳴き声が聞こえ始めた頃、ふと、彼の指に力が込められたのを感じた。
そして彼は言った。来週転校する、と。
雨が、降り始めた――
オシマイだから、と言って。最後の日曜日、引越しの作業から抜け出してきた彼は、今までと趣向の違う仕掛けを施した。机や椅子、教卓の全ての脚に、指サックをカバーにして取り付けたのだ。
二つの黒板には、大きな花の絵を描いた。前の方にヒマワリの大輪。後ろの方には、茎と根っこを、逆さまに。教室全体に横たわる巨大な花だった。
その日は、なぜだか分からないけれど、彼がぼんやりとぼやけて見えた。
柔らかく握手して、別れた。彼の手はひんやりとしていたけれど、少し汗ばんでもいた。
教室から出るときに、一瞬だけ目があった。それが、最後だった。
――いや、最後と言うより、むしろ。
彼から突き出された、決別、だったのだけれど。
彼は、転校しなかった。
月曜日の朝、教室に入って、彼の席に彼がいた。ただ混乱した。
何度も、問いかけるような視線を向けた。学校生活では初めての、コミュニケーションじみた行動だった。けれど、ことごとく無視された。
イタズラは、ぱたりと止んで、学校は秩序を取り戻した。
つまり、彼は、戻っていったのだった。
皆で捧げ持つ、あの乾ききった大きな装置の中へ。
私を拒み、置き去りにして。
直面した現実は不可解で、受け止められなかった。日曜日にも、しばらくは教室を訪れた。教室はいつもがらんと薄暗かった。
風が、勢いを増す。
枯れた木の枝と、千切れた葉。雨粒は、鋭い破片となって、散る。すべてが嘆きに同調する。
涙は雨と混ざり合う。流れていく。ヒマワリの花壇へ。
雲が鳴る。孤独な雀がぱぁっと、舞い上がり。自由な振りをして。すぐに軒下へ隠れてしまうのに。
黒土を殴った。しぶきが白いワイシャツに飛んだ。
汚れなど、どうだっていいのだ。むしろ、雨に流されないで。もっと染みついていて。
両手を、花壇に突っ込んだ。そうして土を掻き出した。
(日曜に一人で学校を訪問し続けた、三回目の週に、彼は相当ストレスが堪っていたようだと耳にした。塾通いや父親のリストラが原因だったらしい。
「今は元気になったみたいだね? 部活でもレギュラーとったとか言ってたし」
聞き手の女子は、へぇ、と祝うような笑顔で答えた。昼休みで、カーテンが舞い上がる向こうから、彼の笑ったりはしゃいだりする声が聞こえていた。
違ったのだ、と思った。彼は圧迫、私は枯渇。
私が潤いを求めるように、彼は、飛んでいく力を欲していた。今、彼はあの窓から、無限に広がる青い空へ羽ばたいているのだ。
彼は、私を通してはじめて、自分の行為に潜む狂気に気づいたのかもしれない。そして足かせを外し終えたときに、その狂気が存在していたことを、受け入れられなかったのかもしれない。それはあまりにも、青い空には似つかわしく思えるから。
ともかくも、彼は知らない。彼の残した呪縛について。
そして、あの掃除用具入れの前で、無邪気に笑いあった瞬間も。
すべて、真実でなくなってしまった。)
「ぁぁぁあああああ!!!」
叫びが、涙が、髪が、天に巻き上げられる。
雨粒が鋭く降って、散る。うねる。痛いほどに身体を打つ。
畜生畜生畜生!
醜い、醜い酷い! 許せない――
なのに、なのに。
「雨粒なんかじゃ、潤わねえんだよ!」
私は忘れることができない――!
種はすべて、浅いところに埋められていた。大半はすぐに見つかった。
種はいずれも膨らんだり、割れて青い芽がのぞいたりしていた。
三十二・三十三個めだけがなかなか見つからず、長い時間をかけて探した。
当直の教師に、見つけてほしいな。と、ぼんやり思った。
いや、どうだろうな。
どっちにしろ、もう私は、自分を断ち切っているのだから。
けれど誰も来なかった。
学校は静かだった。
久しぶりの投稿です。
前半を随分前に書いているので、文体の感じが少し分裂しています…;
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。