表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

短編、その他

芳名も臭名も残せず - 諸葛孔明の教え -

作者: 大野 錦

 諸葛孔明死後から、およそ一世紀以上経ったある英雄のお話。



 三国が亡び晋に統一(西暦280年)された後の知識が少ない方々にも、分かりやすく楽しんで読んでもらえるよう努力した作品です!


 所謂、五胡十六国(東晋十六国)や南北朝時代に、私などより到底及ばぬ詳しい方々は色々いらっしゃいますが、本作がそんな時代に興味を持ってくれる第一歩となってくれればと思います。


 「青史(せいし)に名を残す」という言葉がある。青竹で竹簡を作り、これをを火であぶって油を抜き、青みをとってから、これに漆で字を書き記録を残す。これが「青史」だ。それに「名を残す」とは歴史上の不朽の名声を記録されるということになる。紙の発明以前よりこのように記録を残すことが、歴代の中華の王朝では大事だったのだが、特に紙の発明・普及以降ならなおさらだったろう。逆に言えば自身が歴史上に記録に残される立場の人物にまで登りつめたら、おのずとその人物の行動は慎重かつ制限的なものになりはしないか。

 本稿の主人公は一代の英傑だ。だが、自身が後年どのように記録に残ることを気にしたきらいがあり、結果として中途な状況で死去した。そんな一代の英傑の顛末記である。



 東晋の桓温(かんおん)は若くして侠気があり英雄の気概にあふれていた。軍に出仕するとすぐさま累進した。父である桓彝(かんい)が東晋の高官であったこと、また妻が東晋二代皇帝である明帝(司馬紹(しばしょう))の娘であったこともあるが、周囲から国家の大役を任せるべきだと、誉めそやされるほどの英傑であった。


 さて歴史上、東晋と呼ばれるこの王朝は魏・呉・蜀の天下が三分されていたのを最終的に統一した晋王朝の亡命政権であった。首都は建康。その支配範囲は江南でほぼ三国時代の孫呉と変わらない。

 なぜ統一王朝が一地方政権までに落ちぶれたのか。

 それは晋王朝初代皇帝である、武帝(司馬炎(しばえん))の末期からすでに退廃は始まっていた。武帝が政治に次第に興味を無くしていき、それに対する重臣の専横、それに対する外戚の対立。また二代皇帝が暗愚だったため、皇族である司馬一族の主導権争い。そしてそんな中に飢饉の発生。さらにはすでに曹魏の時代から中華の地にいた胡族が独立し、独自の政権を打ち立て晋王朝に激しい攻撃を加えた。

 これらをまとめて「八王の乱」、「永嘉(えいか)の乱」といい、前者の乱である司馬一族の争いで司馬氏の権威は失墜し、後者の乱で胡族が洛陽・長安を占拠し、多くの司馬一族は殺され華北の地は胡族の領するところとなった。


 この時、司馬一族の司馬睿(しばえい)(司馬懿の四男の司馬伷(しばちゅう)の孫)は江南にいたが、中央の情勢を見て独立。建康を首都とする政権を打ち立てた(西暦317年)。東晋初代皇帝の元帝である。また晋王朝の多くの名臣や名将が勢いに勝る胡族政権に見事に抵抗し、多くの華北からの流民を受け入れた東晋は地方政権ながらも、着実に王朝の体をなしていった。


 だが東晋王朝は一枚岩ではなかった。まず皇帝を筆頭とする皇族の司馬一族と彼らとともに華北から来た中原の貴族、そして現地の豪族による連合政権でった。華北の貴族は皇族の司馬一族も含め現地の豪族を下に見下し権勢を争い、現地の豪族は華北から来た皇族や貴族を疎ましく思いながらも、北の胡族からの劫掠に対するのには華北貴族の力が必要であった。そのため建国以来様々な乱がおこったが、最終的にうまくバランスを取った連合政権へと落ち着いていった。ただしその過程で、皇室である司馬氏の権威は「貴族たちの代表者的立場」に収まってしまったが。


 さらに複雑なのは建康の中央政府とはまた別に二つの軍閥が東晋内にはあったことだ。

 一つは北府と呼ばれる長江下流域を本拠とする軍団。

 一つは西府と呼ばれる長江中流域を本拠とする軍団。

 それぞれは北の胡族との戦いや東晋内部の反乱鎮圧に功のあった軍団を母体としていていた。


 政治的には皇族・華北貴族・現地豪族がもつれ合い、軍事的には中央政府と北府と西府がもつれ合うという中華の長い歴史でも珍しい奇矯な権力と兵権の分散があった。そして桓温は西府の長として兵権を掌握するまでに出世した。西暦で言うと345年にあたる。時に桓温三十四歳である。



 東晋はいうまでもなく、元は中華の統一王朝である。故に胡族に奪われた華北を奪還しようと何度か北伐を試みていたが、それは成功したり失敗したりと、成否は時の華北政権の状態によるところが大きかった。

 そのため桓温はまず確実に北伐を成功させるために成漢の討伐を試みた。

 成漢とはその名の通り、ほぼ三国時代の蜀漢の領域を支配している。支配層は(てい)族だが政権に参与していたのは漢人が多いという、こちらも一種の連合政権であった。言うまでもなく、晋王朝の混乱期に出来た胡族王朝の一つといっていい。

 この時成漢は国中が乱れ、末期症状に陥っていた。しかし、東晋は成漢の平定は不可能に近いと判断していた。江南から巴蜀への平定への道は地理上、極めて困難だからだ。かつて劉備が入蜀を成功させたのは、当時の支配者の劉璋を見限ったものたちによる手引きによるところが大きい。それでも龐統を失うなど、かなりの損害を出した末に劉璋を降伏させた。だが巴蜀の地を北朝に奪われると、江南の地は一気に危機的な状況に陥る。事実、孫呉は蜀漢を曹魏(のちに晋)が併呑すると、滅亡への道へと転げ落ちた。


 故に桓温はこの巴蜀への困難な平定を実行しようとしていた。

 上奏文を送り、許可を得ると、即座に西府から少数精鋭の兵を選りすぐり、桓温はまず長江を水軍で上って行った。上奏があっさり認められたのは「どうせ失敗するだろう」という中央の大貴族たちが軽く見ていたからである。成り上がりの下級貴族ともいうべき桓温はせいぜい痛い目を見るべきだと、高をくくっていた。

 少数精鋭の桓温軍は輜重を最小限にして、陸路にて一気に首都である成都を目指した。「晋軍襲来!」と成漢側ではただちに迎撃の兵をあたらせたが、桓温軍は数日分の糧食のみを兵に携帯させ、狭隘な道を進んでいき、迎撃の兵を粉砕し、またはうまく躱しながら成都近郊まで侵入した。桓温は檄と飛ばす。

「ここまで来たら、あとは力戦するのみ!負ければ、餓死で俺を含め全滅だぞ!」

 ここでついに成漢の君主である李勢(りせい)が自らが桓温軍に挑んだ。その激闘は凄まじく桓温側の参軍も戦死し、桓温自らも成漢軍の矢や剣先の届くところで奮戦するほどだったが、糧秣を自ら切って背水の覚悟で臨んだ桓温軍はついにこれを打ち破り、そのまま成都へなだれ込んだ。

 成漢の主、李勢はこの一戦に敗れると逃げ出したが、結局桓温の降伏勧告を受け入れ、李勢を初め成漢の主だった皇族は皆捕えられ建康へ送られた。ここに成漢は滅亡し東晋に併合された。時に西暦347年。功により桓温は征西大将軍に任じられた。



 見事、成漢を滅ぼした桓温だが、上機嫌とはいかなかった。まだ占領直後なので、残敵による反乱がおこらぬよう自ら長く鎮座してこの地を慰撫しなければならない。

 しかし、そんなことをしていては建康の中央政府から「桓温は蜀の地で独立する気ではないか?」という疑念を出してしまう。なので信頼する部下を置き自らは短期間滞在するのみで、早々に本拠地である西府の江陵へ帰還することにした。

 桓温の成都滞在は三十日ほどであった。その間に彼は諸葛亮が存命中だった時に小吏と務めていたという老人にあった。仮にもし本当なら当時十代の少年だったとしても、百二十歳は超えているはずである。

「諸葛武侯とはどのようなお人であったか?」

「お側でお仕えしていた時はそれほどすごいお方とは思いませんでしたが、今思うとあのようなお方はもう現れないと思います」

 成都では民衆が諸葛亮を祭るお祝いをしたり、霊廟も勝手に作られている。死後百年以上経っているというのに、それだけ蜀の民衆には特別な存在なのだった。成漢が蜀漢の後継国家ということを強調したこともあったであろう。

 桓温は興味本位から霊廟を詣でると、そこでは民衆たちが花を添えたり、掃除をしたり、拝んだりしていた。

「諸葛武侯とはまことに不思議なお方だ。本朝(わがくに)でこのような扱いを受けているものなど、一人としていないぞ」

 桓温は晋の臣として、晋王朝の覇業に貢献した名将・名臣を思い出して、そう嘆息した。


 その夜、桓温は夢を見た。五十代と思わしき道士というにはきらびやかな装束、貴人というにはやや質素な身なりをした明らかにただ物でない人物が夢に現れた。夢の中で桓温は叫んだ。

「何やつだ」

「私はかつてここでお国のために仕えていたものだ。もっともわが墓はずっと北方の定軍山にあるがな」

「諸葛武侯?」

「いかにも」

「それがしは、晋の将。姓は桓、名は温と申します。諸葛武侯とは知らず、ご無礼を」

「私はすでにこの世に亡きものだから、俗世のことはもうよい。そなたは今何をしている」

「この温は閣下と同じく、北に族が割拠しておりますれば、それを討伐して、天下を平らげんと努力しています」

「結構なことだ。それはおぬし一人でできることかな?」

「いえ、我が国に真の忠臣ともいうべき人物はいません。この温いずれ閣下のように、全権を掌握して、やり遂げる所存です」

「それは自らが帝に就くためか?」

「いえ、そのようなことは…」

「今、そなたは全権を掌握したいといったな。さすればそなたがそう思わずとも、周りからはそう見られる。このこと決して忘れるな。もし異心を持ち無理やり権勢を得ようとすれば、滅びの道がそなたに訪れるぞ…」


 忠武侯。これが諸葛亮の死後に送られた諡である。「武」とある通り、諸葛亮は蜀漢の軍権を完全に握っていた。軍師というイメージがあるが、主君である劉備の死後は彼が完全に軍を掌握していた。また彼は丞相であり、録尚書事であり、益州刺史であり、人事権を持ち、法に元ずく信賞必罰の権すら持っていた。現代風に言えば、「国防軍最高司令官」、「国家最高指導者」、「総理大臣」、「帝都知事」、「最高裁判事」をすべて兼ねたところである。現代的な感覚で見ると完全な独裁者である。だが当時でも後世でもそう見ないのは、まずその高い職権を利して国家を私物化したりしなかったこと、そしてごく質素な生活態度とあくまで国家のために身を粉にして働いたこと、あとは単純に蜀漢建国前後に有力な武将や能吏が死去していて、これらすべての職を務められる人物が彼一人だったことにもよるだろう。

 軍事面で言えば彼より一世代上の関羽や張飛。軍政面で言えば同世代の法正や龐統や馬良が健在なら、先にあげたどれか一つの職にしか就いていなかったはずだ。


 王朝の臣下でこれだけの権勢を持つものといえば、後漢末期の曹操。曹魏の司馬昭があげられる。彼らは九錫(きゅうしゃく)を下賜してもらいそれぞれ「魏王」、「晋王」となった。実は諸葛亮も周囲から進められて、九錫を下賜してもらい王となるべきだと言われたことがあったが、それは断固拒否したという。孔明という人物は、自身の栄誉などに関心がなく、ただひたすらに劉備の宿願の漢王朝再興のための北伐にその能力、いや全人生を捧げたといってもいい。

 ただこれは致命的な孔明の欠点ともいえた。ライバルの司馬懿はそんな孔明の性質を察知し、このように私心なくあらゆる職を兼ね、すべてにおいて全身全霊を尽くす者など、早死にすると見抜いた。両者のたびたびの対陣は司馬懿の持久戦がお決まりだったが、司馬懿は孔明を戦場で過労死させたことに成功したようなものだ。



 桓温を初め東晋王朝の高官たちにとって、諸葛孔明とは一目置く歴史上の人物とみなしていた。何より私心なく国家に尽くしたその姿勢は東晋貴族の尊敬に値するところであったのだ。晋はもともと孔明のライバルの司馬懿が下地を作ってできた王朝であったが、百年以上も前のことであり、何より自分たちが中原回復を目指すというのは当時の孔明と立場が似通っていたから、ある種のシンパシーを感じていたのかもしれない。

 さて桓温といえば、思った通り併呑した旧成漢領でたびたび反乱が発生したため、その鎮圧に精を出していた。自ら出陣ということはせず、部下を応援に派遣し数年かけてようやく巴蜀は完全な東晋領土へと落ちつかせた。自身がいれば一年とせず、完全に慰撫できたのに無駄な数年を費やしたと思う。これも東晋の複雑な貴族制度のせいだと歯がゆい思いをした。完全な実権を持って、国家運営をしていた孔明をうらやましく思う。あの怪しい夢のことは次第に忘れていった。


 さて成漢併合によって、国力が充実したことと、北朝の胡族政権に異変が起こったため、桓温は北伐を何度も上奏したが、それは認められなかった。東晋政府特有のバランス重視によるもので、もし桓温がこれ以上功績を立てたら、何を持って報いるのか、いやそもそも今でも強大な兵力を有しているのさらに大軍団となれば、簒奪を試みるのでは…。中央政府は桓温に自重を求め桓温も渋々それに従った。

「俺が上奏しても、何も聞いてくれぬ。しかし、力づくはまずい。そのうち俺にしかできない事態が来よう。今はそれを待つのみだ」


 このころの北朝は後に「後趙」と呼ばれる王朝である。その始祖は(けつ)族の石勒(せきろく)。彼は晋王朝が王族の権力争いをしている時に奴隷として捕まり、後に群盗となり、司馬氏打倒の兵を起こした匈奴(きょうど)の族長である劉淵(りゅうえん)の武将となった。この劉淵の起こした王朝は「漢」だが、まだこの時には華北で胡族相手に奮戦する漢人勢力があった。劉淵死後さまざまなことが起こり、華北の残存漢人勢力は無くなったわけだが、その間に石勒は自立し国号を「趙」として華北の王者にまで登りつめた。「後趙」であるわけだから「前」もあるわけで、それは石勒が王者に登りつめる最後の敵が劉淵一族の劉耀(りゅうよう)の勢力で、こちらも「趙」であったため、両者を区別するために劉耀の側のを「前趙」、石勒の側のを「後趙」と呼ぶ。


 後趙は西暦349年に第三代の君主である石虎(せきこ)が没した。石虎は石勒の族子で、もともと石勒の覇業に貢献した勇猛な武将であった。石勒の死後に即位した二代君主を一年と経たずに廃し殺して、自ら帝位に登極した。この時西暦334年である。桓温からすると、こうもあっさり帝位を奪うという暴挙は信じがたいものであった。もちろん桓温も野心を持っている。だがそれは着実に周囲から推戴され帝位を譲られる形式をとりたかった。石虎のやり方は明らかに青史に臭名を残すもので、当然彼の統治は権力維持のため反対派の大殺戮による恐怖政治であった。

 そんな稀代の暴君が死んで、華北の後趙は後継者争いから混乱の道へと転がり込んだ。この自壊に介入するのは中原回復を国是とする東晋では当然のことであろう。



 その北伐に白羽の矢が立ったのは殷浩(いんこう)という人物である。殷浩は北府軍団の長に命じられ、着々と北伐の準備を進めていた。

 殷浩は桓温同様に若き頃より英名が高く、さらに桓温とは古くからの知り合いだった。ただ武断的な桓温に対して、殷浩は主帥に対しての補佐役の立場が豊富であり、総司令官としての能力は疑問点があった。ただそれを見抜いていたのは、若いころからその人となりを知っている桓温くらいであっただろう。

 彼が北府の長に任じられ北伐の主帥に任じられたのは、例によって東晋政府のバランス重視策によるところである。

「あやつが、総司令官だと?なんだ、これでは俺がそのうち北伐の全権を手に入れるな」

 桓温はこの決定に表明上は異議を唱えたが、それはあくまでポーズであり、中央政府に説得されると、あっさり納得した。

 西暦352年から353年に行われた殷浩の北伐は、桓温の見立て通りに失敗した。それも中原の混乱の中から味方に付けた勢力をうまく統御できず、逆にその勢力から反乱を起こされ、北府軍は連戦連敗、散々に打ち負かされるという失態まで犯した。桓温がその責任を問う上奏をして殷浩は北府の長の任を解かれ庶人に落とされた。

 こうなると、北伐を起こせるものはもう桓温しかいない。桓温の北伐は大規模ものに関して三回行われた。


 第一次北伐は西暦354年に実行された。目的は長安奪還である。この時長安は前秦の首都である。前秦とは後趙崩壊期に氐族が関中で独立した政権である。

 長安付近まで深く進攻し、前秦に対してそれなりの打撃を与えたが、しかし前秦軍も強硬に粘り、桓温軍は補給が続かなくなり、長安攻略をあきらめ撤退した。即座の撤退の判断は殷浩のような醜態をさらすことの危険性を避けたこともあろう。


 第二次北伐は西暦356年に洛陽を目的として行われた。この時、洛陽を同じく攻略しようとしていたのが姚襄(ようじょう)という(きょう)族の酋長である。後趙政権は羯族の石氏が帝室で、その軍事や政治の国家運営には石勒時代から帰順・降伏してきた漢族、匈奴族、氐族、羌族、鮮卑族による連合政権である。石勒や石虎のような剛腕なものならこれらの諸民族を従えることができたが、石虎の死後で諸民族は分離し相争った。

 そんな争いの中で羌族を率いる姚襄は東晋に帰順を申し出たが、これが例の殷浩との諍いの元となり、姚襄は殷浩を散々に破り結局独立してしまったという経緯がある。

 そして洛陽を根拠地としようと進軍していたこの姚襄軍を桓温軍は大いに破り、さらに洛陽の占拠に成功したのだ。桓温は建康の中央政府に強硬に主張した。

「洛陽は回復した。皆帰還すべし!」

 洛陽は晋王朝の首都である。建康は言ってみれば仮の首都なのだから、中央政府は洛陽に戻るのが道理であろう。だが華北の地はまだ混乱続きで、洛陽に居を移すということは危険と隣り合わせということになる。

「まだ時期尚早だ。周辺地域を制圧して、しかる後に洛陽へ戻ろう」

「洛陽帰還は中原を完全に回復してからだ。将軍は今は洛陽の慰撫に専念すべし」

「まだ、状況がどう転ぶかわからない。将軍は今、遠方にあられる。そして十分に北族の心胆を寒からしめた。帰還して、防備を固めるのが上策だ」


 洛陽を落としてからの桓温の思惑通りである。中央政府の皇族・貴族は中原に帰るのが怖いのだ。

「思った通りだ。この北伐の功と遷都を拒否したことで朝廷に対して、俺ができることが増えよう」

 桓温が北伐に熱心なのは、もちろん建前としては中原回復であるが、すでに安全な建康にいる中央政府の貴族どもが北帰する気がないことを見抜いていたからだ。だが東晋王朝も中原回復を国是としている以上、この大功に対して桓温には軍事的な面だけでなく、これで政治的な発言も認めざるを得ないであろう。かつての蜀漢の諸葛孔明のようにあらゆる権勢を掌握するのだ。



 洛陽に守備隊を残し帰還した桓温は、さまざまな政治的な決断を下した。西暦363年に大司馬に任じられたが、この前後にある程度の政治的な権力も得、朝廷に対してさまざまな施策を上奏すなど、その立場は蜀漢の諸葛孔明のごとくなっていった。特に桓温が行った施策で代表的なのは「土断」である。


 東晋政府は華北からの亡命政権である。亡命者は貴賤を問わず「自分の戸籍は元の華北にあり、原住地は仮である。故に戸籍がないので税役の義務はない」という口実で税も納めず兵役にもつかずにいた。

 さすがのこの状態は元からいる江南の人間たちとの摩擦になりかねないので、東晋政府も一応は華北から来た者たちの新たな戸籍登録をしていたが、あまりやりすぎると、今度は華北流民の反発を起こしかねないので、不徹底にしか行われていなかった。この流民の戸籍を原住地にすることを「土断」という。

 桓温はこの「土断」を大規模に且つ徹底して行った。そのため東晋の財政規模は大いに強化されたのだ。


 このころになると東晋政府は連合政権というより、桓温時代ともいうべき状態に入った。中央の貴族はいつ桓温が簒奪するのかと戦々恐々し、中にはそれを見越して桓温に取り入る貴族すら出てきた。またいっそ中央の重職に桓温をつけようと画策する貴族も出てきた。つまり桓温の力はその兵権にあるので、それを取り上げ中央政府に栄転させようというのだ。

 中央への栄転の話は桓温は一貫して突っぱねた。自己の権力基盤は兵権にあるのだから、これを保持したまま、じわじわと中央に食い込むしかない。そして桓温は何かというと「洛陽に遷都し中原を平らげん」と言い、北に帰ることを恐れる貴族たちは何やかやとうやむやにする。そのため「ではそれならこれうしよう」と政治的な発言をする。こうして洛陽遷都を巧み使って中央政治への発言力を高めていった。ところがそんな中、当の洛陽は本格的にまた別の勢力に脅かされ始めた。


 このころになると華北で有力になってきた王朝は「前燕」という。鮮卑族(せんぴ)慕容(ぼよう)部が立てた王朝だ。鮮卑族は中華の北方や西方の塞外にいて、後趙が華北の覇者だった時はそれと争い、ついには石虎の死後の混乱で一気に中華の地になだれ込んできた。中でも慕容部は「燕」という王朝をたて、中華風の体制を整え、後趙の後継とも簒奪王朝ともいえる冉魏を滅ぼし、後趙・冉魏の首都であった鄴を首都として、後趙の残存勢力を次々に滅ぼしていき、ついに洛陽へ迫る勢いとなった。


 ここに前燕が洛陽に迫る西暦360年代半ばの中華大陸の状況を整理しよう。

 代表的な勢力は以下の四つになる。

 一つは南朝ともいうべき東晋で、大体三国時代の孫呉と蜀漢の合わせた領域を支配している。人口・領土・生産力どれをとっても大陸で一番の強国だ。

 一つは長安を都とする氐族による前秦で、建国期は一地方政権の域を出ていなかったが、桓温に破られ西征した羌族の姚襄を滅ぼし、羌族を従え、さらにこの時代最大の賢臣と誉れ高い王猛(おうもう)を、前秦君主の符堅(ふけん)は迎え入れ宰相に就け、急速な国力の増強期に入り華北西部をほぼ制している。

 一つは華北東部をほぼ制した鮮卑族による前燕で、特に将としても宰相としても前燕の飛躍に貢献した皇族の慕容恪(ぼようかく)が重鎮として、国家を総覧している。

 一つは涼州の前涼で、西晋が健在だった八王の乱のころに事実上の建国をしている。建国者である漢人の張軌(ちょうき)は中央の争いを避け、故郷の涼州に戻り、半独立状態ともいえる国を築いた。代々の君主は漢民族の王朝なので東晋を宗主国として仰いでいたが、建国の経緯と時の中原の勢力との関係から、いわば全方位的な外交が国是となっていた。



 西暦365年、慕容恪とその弟の慕容垂(ぼようすい)による前燕軍によりついに洛陽は落とされた。

 東晋にとって、これまで以上に危機が訪れたわけだが、東晋に圧力を加える北の両国にそれぞれ異変が起こったことが幸いした。

 まず前燕は大規模な領土の拡大に貢献した慕容恪が洛陽奪取の二年後に死去したこと、そして前秦は君主である符堅の一族による反乱が相次いだことである。


 桓温はこれを見て第三次北伐を着々と進めた。このころには部下が北府の長を追い落とす策を進言し、それを採択し、北府の長も兼任している。つまりこの時点で桓温は東晋の軍事権を完全に掌握し、この北伐が成功したら中央政府も完全に掌握できるはずだ。


 北伐の上奏が認められ、西暦369年、第三次北伐は開始された。

 桓温の本隊5万は徐州から河川を使い船団で前燕領へ入っていった。中華の地は古くから物資輸送のため水路が整備されている。そして「南船北馬」という言葉があるように南朝の軍は操船が巧みだ。迎撃に現れる前燕軍を次々に破り、兵馬と物資を乗せた大船団は黄河を目指して突き進み、ついに黄河を渡り、前燕首都の鄴の近辺の枋頭まで進んだ。

 どこかの都市占領を成功させるという訳でなく、完全に前燕の征服を目指した行動である。


 鄴では桓温軍の本隊が付近まで迫っていること知ると、その混乱極みに至った。

 前燕皇帝は鄴を捨て、北帰し遷都まで考える始末だったが、そこで皇族の慕容垂が注進した。

「この垂が迎撃に出ましょう。遷都のことはその後でよろしいでしょう」

 ただちに慕容垂が中心となった迎撃軍が組織される。慕容垂は桓温軍の状態を以下のように完全に読み切っていた。


 桓温は枋頭で自軍を駐屯させたまま、前燕からの降将を使い鄴の周辺の制圧を目指し圧力をかけている。これは自軍に損害を出さず、鄴の降伏、またはそれこそこちらの北帰の遷都を狙っている。

 水路や河川を進軍に使ってきたが、華北の水路はここ数十年の混乱で、未整備な個所がある。それを整えず、黄河を渡ってきたが、これは糧道を絶つのが容易であり、物資不足に陥らせることができる。

 つまり今いる枋頭が行動の限界点で、少しでも劣勢になれば、総退却をするはずである。


 前燕はまず、隣国の前秦に領土割譲を条件に、援軍を頼んだ。そして、まずは鄴の周辺を蠢動する降将を中心とする部隊の殲滅を慕容垂は行い、これに成功する。桓温の侵攻以来連戦連敗だった前燕は初めての勝利ともいうべきものをつかんだ。


 桓温は次の三つの報告を受けて総退却を決意した。一つは補給が滞り始めたこと。一つは降将を使った部隊が打ち破られたこと。一つは前秦が前燕のために軍を派遣してきたこと。

 もちろん慌てふためいて、逃げるのではない。船を焼き、陸路にて退却していき、しっかりと殿に強兵をそろえ整然と退却していった。


 慕容垂はすぐに追撃せず、つかず離れずで、桓温軍の後を追った。桓温の軍は歩騎五万、追撃する慕容垂の軍は一万に満たないが全軍軽騎兵である。さらに弟の慕容德に別働隊を率いさせた。



 弓をギリギリまで引き絞った状態であった。連日の強行軍で桓温軍は疲労で次第に乱れていっている。一方の慕容垂軍はすべて軽騎兵なので、近づいては止まり小休止し、再びひたひたと近づく。桓温軍の最後尾にいる物からすれば、北から近づいては離れるこの軽騎兵はさぞ薄気味悪いだろう。

「そろそろだな」

 開けた地に入ったころ、慕容垂は全軍で一気に強襲をかける判断を下した。また別働隊の弟の慕容德が東から同時に強襲する手はずも整えた。

「突撃!」

 前燕軍が一気に強襲する。近距離まで近づくと次々に馬上から矢を浴びせる。連日の強行軍で疲労困憊の東晋軍は防ぐ手だてもなくバタバタと倒れる。近接し、矢を浴びせ、離脱をする。これを繰り返すので、東晋軍は逆襲の体制が取れず混乱したが、どうにか陣形を整え、接近してくる軽騎兵に対する防備を固め逆襲に転じようとしたその時、右手から、つまり東からも軽騎兵が現れ矢を浴びせてきた。慕容德が引きいる別働隊である。


 これで完全に東晋軍は崩壊した。慕容垂軍と慕容德軍は合流すると、手斧や槍で逃げ惑う東晋軍を殺傷し、馬蹄に踏みにじった。

 東晋軍。つまり桓温の本隊は実に二万という超える損害出して、戦場からどうにか離脱していった。

 それでもまだ安全はできない。前秦の援軍が来ているので、前燕領内にまだ残っている東晋軍を早く帰還させなければ、さらに兵の損害が出るだろう。

 結局さらに一万の損害出し、東晋軍は前燕領から完全に駆逐された。


 この未曾有ともいうべき敗戦は桓温のプライドを大きく傷つけたが、朝廷は特に桓温に対し罪をとがめなかったので、桓温は部下の武将に全敗戦の責任を押し付けた。そのためこの将が反旗し前燕と前秦と協力して、反乱を起こすのだが、桓温はこの鎮圧に成功した。これが桓温の最期の軍功であった。

 もはや北伐を上奏して軍功により力をつけるということができそうにない。彼の野心は修正を必要とした。首都建康に乗り込み、朝臣が驚き震える中、彼はとてつもない決定を下した。

 皇帝廃立!

 この時東晋の皇帝は第七代皇帝である。それを廃して桓温は西暦371年に会稽王の司馬昱(しばいく)を第八代の皇帝とした。


 司馬昱は東晋初代皇帝の元帝の末子である。東晋皇帝は二代以降短命のものが多く、廃立に際し、幼少の皇族ではなく、皇族の重鎮である会稽王を帝位に就けたのだ。司馬昱は桓温より数歳年下なだけの五十代の男である。会稽王は若き頃より、中央政府で政治に参画し、例えばかつて桓温を牽制するために北府の長に殷浩を推挙した人物でもある。ただし政治家としては特別有能ではなかった。せいぜい清談家としての名声があったくらいである。

 そんな人物を皇帝に就けた桓温の狙いを即座に察した東晋の貴族はいなかった。


 皇帝を廃立してさらに幼少の皇族を帝位に就ければ、だれがどう見ても禅譲を迫ると思うだろう。

 しかし、かつての政敵ともいえる人物で、中年の皇族を帝位に就けるということは、当の皇帝とじっくり話し合いによって帝位を譲るという形式が取れる。これなら大貴族の反発は少ないと桓温は読んだのだ。


 政治的には凡庸だが、頭の回転が速い司馬昱はそんな桓温の野心を見抜いていた。しかしこの時それに対抗できる手段はなかった。

 なぜなら病状で体が弱まって、もはや若き日のように桓温の野心を止める気力は無くなっていた。

 翌年には司馬昱は重篤となる。そして遺詔を次のように残した。

「太子が輔けるに足る人物なら輔佐してもらいたい。もしだめなら、温自ら位を取るがよい」

 これは蜀漢の劉備が諸葛亮に残した遺詔そのものである。

 だがここでその遺詔を止めた者がいる。かつての桓温の部下だった謝安(しゃあん)が中心となり、遺詔を改変した。

「朕の死後は、太子を輔け、諸葛武侯、王丞相(王導(おうどう))の如くせよ」


 司馬昱即位後も、例によって中央政府の高官の位を辞し、桓温は建康にいず、強大な武力を擁したままだった。そこでこのような遺詔が届いたのは、屈辱以外の何物でもなかった。

「何が、諸葛武侯、王丞相のごとくせよだ!」

 王丞相こと王導とは東晋建国期の丞相である。現在に続く、華北貴族、現地豪族、胡族相手に功のあった軍団という様々な突出した勢力をバランスよく調整した張本人である。東晋はいわば彼によって作られた王朝といっていい。その証左に彼の一族の王敦というものが、東晋建国期に反乱を起こしたが、それを鎮圧し、それどころか身内であるにもかかわらず、彼は何の責も負わなかった。諸葛孔明とはやや違った意味で、自身の栄誉や野心を全く出さず、ただひたすらにこの江南の亡命王朝のバランスに腐心した生涯をおくった賢臣である。



「温よ。久しいな。族の討伐はなかなかに困難か」

 桓温は夢の中で、久しい人物あった。若き日に成漢を滅ぼした時に、孔明の霊廟の参拝などしなければよかったと思う。

「閣下。この温はすでに閣下が身罷れた年を超えています。我が命ももう残り少ないでしょう」

「では、後進に託し。こちらへ来るというか」

「…いえ、九錫を得て、我が身は帝に就かずとも、我が子が帝位に就けるよう準備して死にましょう」

「いつか言ったな。異心を持ち無理やり権勢を得ようとすれば、滅びの道がそなたに訪れると」

「私は閣下の身の振るい方が、不思議に思いまする。何故帝位を望まれなかったのか。昭烈帝(劉備)がそう託したではありませんか?」

「だから、そのような考えを持ち実行しようとすれば、このようになるのだ」

 そういうと夢の中の孔明は短剣を持ち自身の身をずたずたに引き裂き血まみれになった。仰天する桓温に孔明は元の姿に戻りさらに言葉を続ける。

「私はただ昭烈帝のご意志を継ぎたかっただけだ。また権勢を得たのも民の暮らしを少しでも楽にしたかったからだ。結局双方を同時にやろうとすると、どちらかが弱くなるため、中途に終わってしまった。それは帝位に就く就かないは関係のないことだ。温は民の暮らし、北族の討伐、どちらをより強く行いたいと思ったのだ?」

「私は…」

 桓温は言葉が続かなかった。民の暮らしは土断をやったようにそれなり考慮はしていた。しかしそれは国力を増強するためやったことであり、基本的には北伐で名声を高め、政治的影響力を得て、禅譲をされるという遠大な野心を持っていた。

 しかし、この夢の中に出てくる孔明というものは民の暮らしの向上と主君劉備の意志を継ぐ、というその二つのみの相克で心身を消耗させただけの人物らしい。

「あぁ、霊廟が自然に建てられる人物とは、こういった人物なのか。俺は歴史に不滅の名声も得られず、逆に悪逆に謗られる逆臣ともされず、ほんの数十年で忘れ去られる人物で終わるのか」



 司馬昱は即位して一年たたずに死去した。簡文帝(かんぶんてい)と諡されて、新たに簡文帝の六男にあたる12歳の皇子が九代皇帝として即位する。

 桓温にはその朝廷の動きに介入することができなかった。例の夢以来、一気に体調も悪くなってきた。入朝し、簡文帝の陵を拝し、新皇帝への拝謁を終え、自邸に戻ると、即座に重篤な状態となった。

 最後のあがきとして朝廷に九錫を賜るよう何度も要請したが、謝安ら中央政府は「では前例を調べますので、しばらくお待ちを」とか「まず下賜する文章をしたためますので、お待ちください」などと時間稼ぎに入った。もう中央政府の誰もがこの稀代の英傑の死が近いことを知っていた。

「百世に残る芳名を残さんとしてきたが、臭名すら残せぬとはな…」

 西暦373年7月に桓温は死去する。時に62歳。自分が傀儡として帝位に就けた簡文帝の死後一年と経たずに死んだ。


 その野心はともかく桓温がこの時代の一代の傑物であったことは間違いない。それぞれ仕えていた国と対峙した相手の国力が異なるので、諸葛孔明との単純な比較はできないが、桓温と孔明を比較すると北伐の成果は圧倒的に桓温の方が上である。また土断に見られるように国力の増強も果たしているので、政治家としての面でも見るべきものがあろう。

 しかし桓温は民に長く慕われたり、中華の長い歴史で賢臣の例として挙げられず、その逆に悪逆な賊臣として、蔑みを受けたわけでもなかった。本人の自嘲通り時代が下るにつれ、ただの記録上の人物とされた。


 西暦403年、桓温の末子である桓玄が実力により、東晋皇帝より禅譲を受けて、「楚」を興し皇帝となった。露骨な簒奪であったわけだが、当然父である桓温も「太祖宣武帝」と諡された。ただしこの王朝は一年で滅ぼされ、桓玄も殺され、東晋に戻っている。いわば鎮圧された国であり反乱なので、「楚」は正式な王朝とはみなされず、「桓楚」と呼ぶのが通例である。



 青史(せいし)。つまり青竹で竹簡を作り記録することは、実は紙の発明以降も引き続き行われていたが、桓玄の「桓楚」は記録を竹簡で行うのをやめ、公文書に残すのはすべて紙にて行うよう改革した。「桓楚」の数少ない歴史上の功績かもしれない。

 また桓温は政治的な権勢を振るっていた時に、史官にきちんと公文書の記録を取ることを厳しく定めた。史官は桓温の失態まできちんと記録したため、桓温がそれに激怒したという記録まで残されている。そもそも記録を残すことは中華の王朝では常識で、それをもとに後世の王朝の役人が正史を編纂する。

 ところで蜀漢では史官が限定的にしか置かれていなかった。これは正史三国志を編纂した陳寿の指摘だが、その真偽はともかく、蜀漢が人材が限られていた国家ともいえるのだから、あらゆる面で適切な人材を配置できていなかった可能性は高い。

 結果として、孔明は時代が下るにつれ、様々な伝承が追加され崇めらていき、桓温や桓玄は悪しざまには言われずとも、失敗者の部類に属され、忘れ去られずとも、中華の長い歴史で数多く出ている権力者・反乱首謀者の一部に埋没している。


 いつ、いかなる時でも国が政治における公文書を、正確に記録を取ることは最重要事項である。

 例え、自身が権力者になって、失策や違法行為を多く残されようとも…。


 史実を下敷きにしたものって、難しいですね!

 はっきり言ってウィキのただのコピーペーストですよね。(汗)


 今用意しているオリジナルの長編冒険ものが、こういった軍記色の強いものなので、練習として書いてみました。


 補足、下記のリンクも読んでくれたらありがたいです!


【読んで下さった方へ】

・レビュー、ブクマされると大変うれしいです。お星さまは一つでも、ないよりかはうれしいです(もちろん「いいね」も)。

・感想もどしどしお願いします(なるべく返信するよう努力はします)。

・誤字脱字や表現のおかしなところの指摘も歓迎です。

・下のリンクには今まで書いたものをシリーズとしてまとめていますので、お時間がある方はご一読よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
■これらは発表済みの作品のリンクになります。お時間がありましたら、よろしくお願いいたします!

【短編、その他】

【春夏秋冬の公式企画集】

【大海の騎兵隊(本編と外伝)】

【江戸怪奇譚集】
― 新着の感想 ―
三国志マンガの蒼天航路が好きなので、 謹んで拝読させていただきました。 内容についてうんぬんできる知識はないんですけど、 なんかもうこんなに精密な長文を執筆できるという 能力に脱帽しちゃいますね。私…
[良い点] 東晋五胡十六国マニアです。拝読致しました。ありがとうございます……ありがとうございます、桓温さまマジでかっこいいです……! [一言] ウィキのコピーペーストとおっしゃっておられますが、箇所…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ