クマのぬいぐるみ
必死の覚悟で空気を飲み込んだ。まるでスローモーションの世界にいるみたいに、ゆっくりゆっくり慎重に左腕が前に伸びた。視界にこんがり焼けた腕が映り込む。この腕が求める先には、可愛らしいクマのぬいぐるみ。白い棚の中にはクマ以外にも様々な動物のぬいぐるみが座っていた。
私は今からこのぬいぐるみを万引きするのだ。
目的は万引きだった。万引きできるなら、商品はなんだって良かった。ぬいぐるみをターゲットにした事に意味などなかった。
万引きが趣味なわけでも、万引きをしたいわけでもない。本当は何もしたくない。理由はそれだけだ。私は疲れたのだ。生活するのがこんなに大変だなんて思わなかった。万引きすれば警察の人が、私を相応しい場所へと連れて行ってくれる。そしたらこの人生からお別れができる。
陰口も噂も、言えば必ず本人まで届く。私の知らない所で一体どれだけ私は話題にされたのだろう。「離婚したらしい」。一体どこからその情報を奪ったんだ。裏でそう言っても、私の前では取って付けたようなお世辞を吐くだけの愚者ども。「今日も可愛いですね」。何も嬉しくない。相手を喜ばす手段にそんな社交辞令など不必要だろう。そんなに言いたいなら本人のいない所で「あの方可愛いですよね」と言ってくれ。
あぁどうしても生きなければいけないなら、もっと別の素敵な世界に生まれたかった。きっと宇宙が膨大すぎるだけで地球のような生命の星はそこら中に溢れているはずだ。地球に生まれる小さな確率の中でここにいるのだ。
ぬいぐるみはじっと私の瞳のずっと奥を見つめてきた。「金を払え」と笑いながら言ってくるみたいで少し怖い。しかし私の手の先は間もなくクマの手を触れる。そして、指の先が感覚を持った。するとそれを合図に私の手はスムーズに動き始めた。何事もないかの様にクマの腕を掴んで、右腕も動き出しクマの尻をそっと支えた。そのまま棚の中からクマのぬいぐるみを引き出した。
その次の瞬間、「ねぇ」と足元から声がした。驚きのあまり声も出せずに、ただ全身の毛が激しく跳ね上がった。
もうバレたんだ、この人生とお別れする時間さえも与えてくれない。どうしよう、急に嫌になってきた。覚悟を決めていたはずなのに。
それでもどうしようもない。私は潰れてしまうのではないかと思う程にぎゅっと目を瞑った。
時間を取り戻す事が無理なのはもう知っている。運命に身を委ねる以外の方法を見つけられない。
私は鉛のように重くなった足を声の聞こえた方向へ向ける。
「ママ?」
耳に届く声は聞き慣れた優しくて温かな声だった。目を開けるとそこに映るのはまだ六歳手前の息子の勇生だった。
「ママ、僕が欲しいって言ってたぬいぐるみ覚えてたの?」
勇生は瞳を輝かせて私を見つめた。
見つかってないという安堵などなかった。いや、あったのかもしれない。ただ他の感情に押しつぶされて感じられなかっただけなのかもしれない。
私はただただ腹を立てた。その相手は自分自身だった。
「ママー。ぬいぐるみー」
愛する息子の為に人生を終わらすなど、なんて愚者だろう。
私は勇生の目線まで腰を下げて優しく微笑み言う。
「今日からこの子は勇生のクマちゃんよ」
パパがいないからなんだ。他人の言葉に挫けたりしない。勇生の為に生きるんだ。
クマのぬいぐるみを持って、勇生とレジに向かった。鞄の中には財布が入っていて、中身もきちんと入っていた。
私は今日、お金を充分に持って勇生と出掛けてきたのだ。
のちの作品のおまけ短編みたいなものです。特にネタバレ要素はないです。読んでいただきありがとうございます。