8.君へと至る道はまだまだと
「まだまだ続く、階段よ♪」
久方ぶりに聞いた階段の君の声。
今日は何を言い出すのだろうと、笑いが込み上げる。
帝司は階段を静かに登りつつ、その微妙な音程の歌に耳を傾ける。
「踊り場越えて、はーちかい。まだ、まだ、まだ~♪ ……はぁ、歌ってると余計疲れるわ」
そりゃそうだ。
くつくつ笑いながら上を見る。ホント誰なんだ、この子。
今度は話しかけようと意気込んだ先週。
それが空振りに終わって、なんだかんだと一週間が経って。今は、正体よりもこの愉快なひとり言を一日でも多く聞いていたいと思っている。
高峰さんのところは面白いメンツがそろっているな。
この階段の君にしかり、見た目を裏切る高田歩美しかり。いつもハイテンションな高杉浩太に、それを振りまわしているように見えて、実は振り回されている高花理衣沙。
まだ見ぬひんやりシートイケメン高谷に、そして、素でイケメンの――。
佐奈。
帝司はぴたりと足を止めた。
じわり、と熱くなってくる顔を片手で覆った。
あれはいろいろ反則だと思う。
自己嫌悪に陥ったあの日。
彼女に悪気がない事は百も承知だったのに、笑ってファイルを取ってもらわなかった自分。情けない。
仕事を終えて、階段に出た。
いつもは朝しか聞けない愉快なひとり言を。出来たら、今日、今すぐに聞きたかったのだ。
だけど居たのは、彼女で。膝に顔を埋めて眠るその頬に一筋の涙を見た時、自分が傷つけたのだと、本能的に悟った。
ごめん、度量の狭い男でごめん。
声を掛けたくてもかけられなくて。それでも帝司は彼女に近寄った。すぐ隣では起きたらビックリするかもしれないなんて妙な気遣いで、一段上に腰かける。
今思えば、声をかけられない分、態度で謝罪しようと思ったのだろう。しばらく傍にいて、彼女の顔を眺めた。
そうしたら彼女が寝言を言い始めるから。
うん。うん。と短く答えて、そして、それで。
可愛い笑顔。可愛い、照れた顔。
『ありがとう、ごめんなさい――滝川さん』
『いいよ。――佐奈』
帝司は頭を抱えた。
いくら名前しか知らないと言えど、勝手に名前呼び。しかも、頭に触れたのはまずいだろう。
謝罪したらヘンタイだと思われるだろうか。それは正直いやだなあ……。
謝りたくても、謝れない事。
帝司は心の中にもやもやを抱えた。
そんな帝司の思いなど全く知らない社内では、徐々に十階と十ニ階の行き来が増えてきていた。
「帝司、これ十ニ階! ついでに先週渡した書類の返事もらって来て!」
「はい!」
新商品のサンプルと関連書類をもって階段を登る。
計、紙袋四つ分。少々重いが、まあいいか。
途中、連絡を受けたのか、上から降りてきた高杉浩太が「持ちます!」と両手を差し出してきた。帝司は頼まれた書類の件を話し、結局紙袋を半分ずつ持ちながら、十ニ階へと向かう。
「社長―! この間のサンプルの合否聞きたいそうですよ!」
デカイ声で高杉が叫ぶので、皆が一斉にこちらを向いた。
あ。
今、目が合った。
ちょうど高峰社長と話をしていた彼女がペコリと頭を下げる。そして、帝司も頭を下げる。
こういう場面は良くあった。だけど、あの日以来、まだ話は出来ていない。
帝司はなんとなくよそよそしい彼女にやきもきし始めた。
最初、近づいてきたのは君の方じゃないか。それなのに。
自分の態度に原因があった事は分かっている。
だったら、それを取り除くのも自分だ。
帝司は待つ事が苦手だと、自覚がある。それならもう、いくしかないだろう。
◇◆◇
「おつかれさま、今帰り?」
急に声をかけられて、佐奈はビックリした。
「おつかれさまです。――滝川さん」
帰り電車? と聞いてきた彼に頷けば、「俺も」と自然に並んで歩き始めた。
え。ええ??
これって一緒に帰る感じ?
まさかの展開に佐奈は驚いた。
ビルを出て最寄り駅へ歩き出す。
梅雨時期のじっとりとした空気。雨は降っていないけれど、湿度はやっぱり高くて。佐奈は早くも冷房完備の社内に戻りたくなる。もし会社に住んで良いと言われたら、喜んで住みつく勢いだ。
相変わらず、女子力低い自分の発想に苦笑する。
同僚の理衣沙は外見中身共々女子力高くて、歩美は周囲の意見曰く、外見詐欺と言われるけれど、それは少なくとも見た目は合格なわけで。その二人と比べると、自分は外見も中身も不合格だと思う。まあ無理をして変えようだなんて思っていないし、その必要もないと思っているのだけど――。
佐奈は目線を落とし、彼を見る。
バランスの取れたスマートな横顔。
髪は細く、猫っ毛のようだが、触るととても柔らかそう。
表情は角度のせいでよくわからない。それでも特に怒っているような気配はなさそうで、だけど、機嫌がいいのとも違う気がした。――そもそもどうして声をかけてくれたんだろう?
滝川さんが顔を上げた。
うっかり目が合ってしまって、佐奈は気まずくなって視線をうろうろさせる。
「あー。今日そっちに持っていた新商品のサンプル、見た?」
「え、あっ。さ、サンプルですか? うんと、ざっとですけど、見ましたよ」
「目ぇ引くもんあった?」
「うーん……そうですねぇ、ぱっと見は無かったというか、うーん」
「つまりインパクトはいまいちって事か」
隣で腕を組んで考え込む滝川さん。
佐奈は拍子抜けした。
いや、何かを期待していたわけではない。逆に何を言われるのだろうと思っていたから、ある意味王道である仕事の話で、肩の力が抜けたのだ。
「やっぱりもう少し詰めるか」
「あの、見た目も大事ですけど、やっぱり機能とか使用感とかも大事だと思うんです」
「もちろん、それらを大事にしつつ、わっと驚くような、思わず手に取りたくなるような、そういうのがほしいなって」
「そ、そうですよね! まずは手に取ってもらわないといけないですしね!」
「似たような商品は星の数ほどあるからな。その中で定番を目指す訳だから、簡単にはいかない」
真摯に向き合う滝川さんを素敵だと思った。
佐奈は元々文具好きで、それが高じて今の会社を選んだ。自分で自分の気に入る物を作りたくなったのだ。デザインも、機能も、使用感も、その他いろいろ。でもそれは、同時に誰かの好きを目指す事にもなって、商品開発の奥深さを僅かながらでも垣間見ているところだった。
まだまだひよっこの自分には見えていない事も沢山あるけれど、少なくとも滝川さんの姿勢は使い手をわくわくさせるものだと思う。
「今回の新商品は学生向けだから、見た目も少しぐらい冒険してみるのもいいかもしれないな」
「机に置いて、気分が上がるような物になるといいですね」
「ああ。そうだな」
そこで時間切れだった。
滝川さんとは乗る電車が逆方向で、彼は「じゃあ、また」と、すんなり駅のホームへ消えてしまった。
結局話したのは仕事の事だけ。高峰文具の様子を聞かれる事も、ましてや佐奈の事を聞かれるでもなく、ほんと、それだけ。
「……仲間として、声をかけてくれたのかな」
それ以外考えられない。でも嬉しい。
嫌われたかもって、思っていたから、本当に嬉しい。
だけど、たとえあの場にいたのが佐奈でなくても、滝川さんは声をかけたのだろうと気が付くと、それは少し残念に思った。今日、自分があの場にいた幸運に感謝する。
また、お話しできるといいな。
仕事の話でも、他の話でも。
佐奈はニコリと笑って、駅のホームを駆け降りた。
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