1.棚の君
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「も、もう足上がんない……」
崩れるように階段の手すりにもたれかかり、佐奈は泣き事をつぶやいた。
ここはとあるビルの内階段。
十ニ階建という超高層ビルからみればまだまだな高さ、築年数も十数年とほどほど、そして規模としても中堅からやや小規模の会社が入っている、いわゆるどこにでもある普通のオフィスビルだ。
高谷佐奈が勤める高峰文具もその一つで、社長が高いところ好きという一点のみで最上階のフロアを借りている。
もちろんエレベーターはあるが、二機のみ。小型でスピードもやはり超高層ビルには遅れをとる。
そんな中、荷物をたくさん持った人が複数並んでしまえば、手ぶらの佐奈は譲るのが道義であろう。
「やっぱり待てばよかった……!」
あとから来たのに先を譲られた人の申し訳なさそうな顔を見て、「い、いまダイエット中なんです!!」なんて笑いながら、内階段に駆けこんだ。嘘ではないが、それは年中の事。いまさら会社へ向かう為に運動などする予定はなかった。
まあそれでも、少しは筋肉つくかもなんて階段を登りはじめたが、そんな事を考えていられたのは最初の方だけ。五階を過ぎたあたりにはすでに息が上がり、七階八階へとくれば、軽く後悔をし始める。
佐奈の勤める会社は最上階。十ニ階。
もう一度言う、十ニ階である。
日ごろ運動もしないニ十三歳には、ちときつい道のりであった。
「運動不足ってわかってるよ、地下鉄乗ったって絶対エスカレーターだし。なんなら二階でもエレベーター使うし。実家が平屋で万歳だなんて、ムカデが出た時は絶対思えなかったけど。でも今考えれば、バリアフリーで最先端だよ。イエス平地! ノー段差!!」
せめて、十階なら……。
へろへろと階段をまた一段と登り、ふと顔をあげると、ガラス扉の向こうで人影が見えた。
あ、まずい。
佐奈はしゃんと姿勢を正して、一呼吸。
だらけていた姿は封印。社会人として恥ずかしくない姿勢を保つ。
こほんと、小さく咳払いをして再びガラス扉を見やれば、小柄な後ろ姿が見える。
どうやらこちらを見ていなかったようだ。よかった。
現在、十階。
ここまでの高さともなれば階段を使っている人は自分ぐらいだろう。しかし、油断しすぎはいけない。
「……って十階って、たしか」
佐奈は扉の上を見た。そこには真新しい社名プレートがかかっている。
高山文具。やっぱり。この間、合併した会社だ。
社長の登山仲間である高山文具さん。
様々な業種で再編が繰り返される中、馬が合うか分からない他社と一緒になるより、馴染みの高山さんと組んでやろうという事になったのは一年ほど前らしく。佐奈に話が来たときにはすでに全ての事柄が決まっていたので、あれよあれよという間に、ちょうど空きになっていたこのビルの十階に高山さんもオフィスを構える事になった。
さっきの荷物の人達は、きっと新しい仲間達だったのだろう。
今日は月曜日。この土日で引っ越しをしてきたのだと思えば納得だ。
歓迎会とかやるのかな。
たしか対等の合併だったはずだから、うちが歓迎っていうのもおかしい表現かな。
それでも近いうちに顔合わせの場が設けられるはずだ。
佐奈は入社三年目。ようやく若葉マークの取れてきた状態だけど、新しくなった組織でうまくやっていけるといいなと思った。
気を取り直してあと二階分。
佐奈はもう一度ガラス扉の向こうを見て、ふと気がついた。
先程見かけた小柄な後ろ姿が、棚の上に手を伸ばしている。
届きそうで届かない、もどかしいあと数センチ。すでに背伸びをしているのか、少し震えているように見える。
引っ越したばかりで、踏み台がないのかもしれない――。
佐奈は常の役割を思い出して、ガラス扉を開けた。
小柄な背中はやっぱり背伸びをしていた。スニーカーで見事なつま先立ちを披露する姿はバレリーナのようだが、その反対の手は埋まらない数センチに指先を歩かせている。これは届かない感じの悪あがきだ。
「この、青ファイルでいいですか?」
小柄な背中に声をかけ、すっと指先にあるファイルに手を添える。
返事はなかった。
けれど指は間違いなくそのファイルを指していたので、佐奈は迷わずそれを引き抜き、笑顔を浮かべて目線を下げた。
目鼻立ちの整った、綺麗な顔。
伸ばしている腕も後ろ姿同様線は細いのに、それでもスポーツなどしているのか、しなやかな筋肉がついている。うらやましい。佐奈は自分のプニプニ腕を思い出して恥ずかしくなりながら、それを隠すために笑みを深める。
しかし、その中性的な綺麗顔は驚いたような表情をして、こちらを見て固まっていた。
「あれ? これじゃない? 隣かな?」
「……いや、それで合ってる、けど」
「けど?」
「…………」
何故か黙りこんで視線を落とした相手に、佐奈は首を傾げた。
表情が少し、暗かった気がする。なんとなく、ありがとう、というよりも、悔しい、というように見えた事が不思議だった。
「あ、あの」
「とりあえず、サンキュ」
開けっぱなしの扉を抜けて、小柄な後ろ姿が視界から消える。
それでも佐奈はその方角を黙って見つめていた。会話途中の暗い表情が気になったのだ。
失礼は、なかったよね?
声かけと、表情と。IDカードでの入出制限があるこのビルでは、佐奈が部外者ではないとわかるはず。――いや、ひょっとしてまだそういう細かい事は知らないのかもしれない。でもそれなら、こちらに向ける言葉も表情もおかしい。不審者に「とりあえず、サンキュ」などと――……。
佐奈は、その声を思い出してはたと動きを止めた。
中性的な綺麗顔。想像より低いと思った声。
私服オーケーな会社なので、ラフな格好にスニーカー出勤は多く、佐奈も他の同僚の女の子もパンツルックは当たり前だった。
この認識がいらぬ先入観を招いて、多分佐奈は余計な事をした。
「やってしまった……」
昔、同じ事をして、ものすごく睨まれた事がある。
不思議な顔をしていた佐奈に、友達が気の毒そうに言った。
『あれは屈辱的だわ』
何が。そう思ったけれど、続く友達の言い分に自分の気遣いのなさが嫌になった。
高いところにあるものを、女性が取ってしまうこと。
――そう。相手が男性だった時の話だ。
◇◆◇
「さーなー! あれ取って」
「はいよ~」
すっと、立ち上がり、佐奈は棚上にある段ボールを持ち上げる。
「ちっ、から、もち~!」
「中身ティッシュだから」
「えへへ、そうでも助かる! ありがと、佐奈!」
自分より頭一つ低い同僚を笑顔で見送る。佐奈にとってこういう事は日常だった。
身長百八十センチぐらい。本当は百八十三センチ。
聞かれた時にはいつもぐらいという表現で地味にサバよみしていたりする乙女。
もちろんそんな事に気付く人もいないし、見た目のまま長身なので、棚上の荷物取りや、電球交換、高い所の拭き掃除なんかは無条件で佐奈の仕事だった。
もちろんそれに不満はない。
けれど、今朝の事を思うと、こう、やっぱり、そういうのは男の人にやってもらった方がいいのかな。と、考えたりもする。
佐奈が自席に戻り、短く息をつくと、
「どうしたの? 佐奈。何か元気ないけど」
隣席の高田歩美が小首を傾げた。
ふわり、とウエーブのかかった横髪が流れる。
小顔なベイビーフェイス。甘さを含みつつも、仕事の邪魔にはならない、清楚なお嬢様系の服装で出勤してくる歩美は、ザ・女子の鏡のような同期だ。
「元気、ないわけじゃないけど。ちょっと失敗しちゃって」
「フォローいるやつ?」
「んーん。いらないやつ」
「わかった。じゃあ、これあげる」
すいっと、机を滑らせて送られてきたのは個包装のチョコとおせんべいだった。気分に合わせて食べろということだろう。彼女の気遣いは、恩着せがましくなく、いつもスマートだ。
佐奈は歩美にお礼を言って、まずチョコを口に含む。甘い。
ファイルを開き、入力を始める。舌の上でチョコの甘さを堪能しつつ、思考を切り替える。
カタカタと規則正しい音が室内のあちらこちらから聞こえ、佐奈も集中して入力作業に取り組んだ。
外では気持ちのいい青空に、ふわふわな雲が泳いでいる。梅雨を迎えるまでの、束の間の晴天。午前の時間が緩やかに流れてゆく。
しばらくして、ぴたりと佐奈の手が止まった。
『青ファイル』
品目を見ただけで、また意識が今朝に戻る。
――やっぱり、気分悪かったかな。
棚のファイルを取る。
事柄としては大したことじゃない。
それでも少し気落ちしたような、暗い顔をみれば、いい気分でなかった事ぐらいは佐奈にもわかる。本当に余計な事をしてしまった。
ただ、こういう事は謝るというのにも少し違っていて、打つ手がないのが現状。
多分、謝った方が余計に気分を害すだろう案件は、悩みと後悔だけを残して、佐奈の心の底に溜まってゆく。
背が高すぎる事を悩んでも、仕方ないと分かっている。
それでもたまに、この身長を誰かにあげたくなってしまう。
佐奈は首の凝りをほぐす仕草に混ぜて内心で首を振り、おせんべいの封を切る。
ぱりっと小気味よい音と、広がるうまみ。おせんべいの味は塩。おいしいけれど、ちょっぴり心がヒリリとした。
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